ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

ムーミンとスイッチ。

 インフルエンザで幼稚園をお休みしている末っ子と一緒に『楽しいムーミン一家』を観ていたら、じぶんのスイッチが入りっぱなしになっていたことに気づいた。海のように広いムーミンママの言葉に心をつかまれながら、エネルギーのむだづかいを悔やむ。

 ムーミン谷で暮らす人たちの生活がうらやましくおもえてならない。たまらなくスナフキンと旅の話がしたい。そこで、「ああ、そういえば」と思い当たった。ここのところ、じぶんなりにがんばりすぎていたのかもしれない。他人からみたらどうなのかはわからないけれど。

 生きていると、それだけで煩わしいことが目白押しで、ときおりスイッチを切ってしまわないと身も心も保たない。疲れる。疲れると思考力が低下するし、ここぞというところで力が出てこない。ぼくは定期的にじぶんのなかにあるいくつかのスイッチを切ったり入れたりしながら、じぶんのスイッチを調節するようにしている。身体のスイッチ、思考のスイッチ、人間関係のスイッチ、義務感のスイッチ、時間のスイッチ。電気のブレーカーをおとすみたいに、ぜんぶをバチンッと切ってしまいたい衝動にかられることもあるけれど、生き方そのものを変えない限りなかなかそうはできないので、その都度ひとつひとつ考えながら切っている。世の中的には、やる気スイッチや前向きなスイッチなどを入れることばかりが取り沙汰されるけれど、時には切るということも必要だとおもう。そうでなくては、長い人生、息切れしてしまう。

 そんなことを考えていたら文庫版のムーミンを無性に読み返したくなって、子どもと一緒に寝そべったまま、ときどき声に出したりしながら好きなところだけなんども読んだ。トーベ・ヤンソンの語る哲学は、突きつけられることで目を背けたくなるような真理がそこにあるにもかかわらず、物語を楽しみながらそれがじんわり入ってきてしまうところがすごい。スイッチの調整をどうすればよいのか、そんなヒントもここにはある。

 いつか、ぼくもムーミン谷で暮らしたい。

新装版 たのしいムーミン一家 (講談社文庫)

新装版 たのしいムーミン一家 (講談社文庫)

 

  人の目なんか気にしないで、思うとおりに暮らしていればいいのさ。(スナフキン)

じぶんの持ち場。

 まいにち本ばかり読んでいて、あたまでっかちにならないのかと訊かれることがあるけれど、たぶんなっているとおもう。少なくとも、思弁的な枠組みと他力本願につくった仕事上の仕組みがぶっこわれて、じぶんもぶっこわれそうになったあの日までは。

 どちらかというと、生活全体をプラグマティックに考えて実践してきたつもりだったのだけれど、その日を契機にじぶんに対して大きな誤解をしていたことに、はたと気づいた。いまでこそ、それはじぶんにとっての大きな転向の機会となり、とてもありがたいこととして受け止められるようになったのだけれど、そうなるまでにはずいぶんと時間がかかった。

 困難や失敗のまっただなかにあっても、そういった一つひとつの経験のなかにある、その経験だけがもつ独特の意味を全身全霊で汲みとろうと努めれば、そこから新しい発見や可能性を見つけることはできる。努力さえ惜しまなければ、きっと成長にもつながっていく。なんとかして生きていくというのは、学びの連続なのだ。

 立派な考えは本の中にある、と思うのがソモソモ間違ってるんだなあ。水晶のように綺麗に結晶したものは、本の中に収まり易いかもしれない。しかしオレが魅力を感じるのは田んぼの泥のような思想だ。あらゆるものを受け入れ、こやしにし、乾けばホコリとなって空へ舞い上がり、雨ふれば田んぼへたまる、そうした思想だ。水晶は美しいけれど生命をはぐくまない。田んぼの泥は、きたなくっても、矛盾していても、生命をはぐくむ力をもっている。(「わがへらめき」阿伊染徳美 著/『わがかくし念仏』1977年11月 思想の科学社)

 田んぼの泥のような思想。とても魅力を感じる。世の中がどんなに変化しようとも「じぶんの持ち場」で踏ん張って考え、実践していくということはとても大切なことだとおもう。一般的な大衆にとっての変化とは、世の中がどうこうということよりも、じぶんのおかれている状況や身近な場所がどう変化しているのか、ということなのではないかとおもう。少なくともぼくのまわりではそんな感じで、肌身で感じない限りは世の中に在って世の中にはない。生活に即した思想と身近な場所での行動は、そこで暮らすものの維持や変化に対応し、また新しい変化を生みだすこともできる。

 物事に対して俯瞰して考える訓練をし、それを肉体的な反射として行動に移せるかどうかというのには、いろいろな方法があり、いろいろな場所がある。その場所のひとつとして「じぶんの持ち場」というものがあり、そこで考えていくためのひとつの方法として「田んぼの泥のような思想」がある。岩手県の「ムラ」を支えてきたこの思想がいいとか悪いとかというのではなく、じぶんの仕事を考えていく上でのひとつの方向として、とても興味深く読んだ。そういったぶぶんを抜きにしても、単純に読み物としてめちゃくちゃおもしろい。

 とにかくいまは、思考と実践を交互に見比べながら、じぶんの持ち場で踏ん張るための態度を日々養っている。あたまでっかちにならぬよう気をつけながら。

わがかくし念仏

わがかくし念仏

 

 

ピート・ハミルな夜。

 あれこれ考えすぎて眠れない夜がある。

 頭を冷やすといい、という話を聞いたことがあったのを思い出し、冷凍庫からアイスノンを取り出す。朝までぐっすり眠れるようにと祈るような気持ちで明かりを消す。一時間後、冷えた頭であいかわらずあれこれ考えているじぶんがいる。

 ベッドサイドには、いつでも5冊くらいの本が積まれている。どれも短い小説やエッセイばかりで、眠る前や眠れない夜のためにぼくが選んだものだ。ここちよく沁みいる好みの文章で、なおかつ思考の旅に出なくてもすみそうなテーマで書かれたものであることが選書の基準となっている。たまに取り替えるものもあれば、ベッドサイドが定位置となったままの本もある。いずれも、いつでも手に取って読むことができるというその事実だけで、実際的・実在的なものとしての深い安心感を与えてくれる。

 そんな夜の一冊のなかに、ピート・ハミルの「ニューヨーク・スケッチブック」がある。この本とのつきあいは長く、十数年間にも及ぶ再三の寝返りによる痛手を受け続け、いまベッドサイドにある二代目でさえもかなりヨレているくらいだ。人生における危機の瞬間、愛とその不在、都会の孤独、忍びよる過去の重みなど、実際にあった多様な人生の、ともするとなんでもないような出来事の断章が絶妙な語り口によって描かれたこの短編集を読むと、酒場で飲み過ぎてウトウトしながら友人と語り合うあの感じが彷彿としてよみがえる。いつどうやって別れたかも思い出せないまま、ただベッドに倒れ込むようにして眠るだけ。

 「もしおれを迎え入れてくれるなら、その木の枝に黄色いハンカチを一枚結びつけといてくれ、そうしたらおれは、そこでバスを降りて家に帰るから、って。でも、もしおれに会いたくないんだったら、なにもしなくてけっこう、ハンカチも結ばなくていい、そうしたらおれはそのままバスに乗って町を走り抜けるから、ってね」(「黄色いハンカチ」ピート・ハミル著/『ニューヨーク・スケッチブック』1986年 河出文庫)

 上に引いたのは、山田洋次監督の映画「幸福の黄色いハンカチ」の原作となった一編。何度も観ている大好きな映画だけれど、この物語のクライマックスで歓喜する若者をよそに、人生の仄暗い部分を感じさせる年老いた前科者が漂わせる空気感は、原作のほうがより色濃く感じられ、ずっしりと重い。

 眠れない夜に、おすすめの一冊。

ニューヨーク・スケッチブック (河出文庫)

ニューヨーク・スケッチブック (河出文庫)

 

 

好きなものを見つける。

 息子が野球をはじめて、ちょうど4ヶ月になる。親に似てダラダラとした生活を好む子だったのだけれど、野球をはじめてからは、いくぶんまともなリズムで生活を送れるようになった。

 じぶんから「どうしてもやりたい」と頼んできただけあって、早朝からの練習にも、まる一日のきびしい練習にも文句をいわず、汗と涙と泥にまみれてグラウンドから元気に帰ってくる。その真っ黒になった顔は、とても眩しい。

 きのうの夕方、急に買い忘れていた本があったことを思い出し、気だるい身体にムチ打って、家から少し離れた書店まで目当ての本をもとめ猛スピードで自転車をこいだ。パンパンになった太ももの上に載っているその本は、山田太一さんのエッセイ・コレクション『S先生の言葉』(河出書房新社)である。ぼくはそれほど熱心な山田太一ファンというわけでもないのだけれど、何冊かのエッセイ集といっしょに『ふぞろいの林檎たちへ』(岩波ブックレット)という手放せない愛読書を書棚のいちばんよいところに差していて、いつでも手に取れるようにしているくらいにはファンである。いつかまとめて読んでみたいとおもっていたところにこの随筆集が企画されたので、編集された清田さんにお聞きしてからずっと楽しみにしていた。

 どんな状況で育とうと物事や他人に深い関心を抱いたり想像力が豊かだったりする人間はいるという気がする。それだって幼児体験や遺伝やカルシウムの摂取量で説明してしまえるという人もいるかもしれないが、多少は意志でも獲得できる資質だと思いたい。(中略)傍目にはくだらなく思えるものでもいいから、深く好きになることだと思う。そういうことで、どれだけ魂みたいなものが育つか分からないと思う。(中略)なにか一つ、自分が本当に好きなものを発見することだと思う。なければ無理にでもつくって、それに集中することだと思う。心から好きなもの好きなことがなにもないというのは、はずかしいことなんじゃないかと思う。(「好きなものを見つけよう」山田太一著/『S先生の言葉』2015年10月 河出書房新社)

 好きなものがあるということは、それだけで幸せなことだとおもう。なにもないことがはずかしいことなのかどうかはわからないけれど、そういう人生がおそろしくつまらないものになるだろうという想像はつく。

 ぼくの好きなことといえば、あくまでも実際の生活を中心においた上で世界のことを考えたい、知りたい、そのために本を読むということである。本を読みながらせっせと抜き書きをし、まずはじぶんの生活に役立つであろうとおもわれる小さなヒントを集めていく。ひとつの文章がいくつも集まってまとまった思考へ、一冊の本から数冊の本へという具合につながっていく広がりは、少しずつじぶんの世界も広がっていくような気がしてうれしくなる。

 どんなことであれ、たとえそれが他人には決して理解できないようなことであったとしても、心から好きだとおもえるなにかを見つけ没頭できるということは、他の何にも代え難いよろこびであり、またじぶんのなかに広がりを見つけるための唯一の手段であるといってもいいだろうとおもう。いまは野球やダンスに没頭しているうちの子どもたちだけれど、これから先、まだまだ知らない多くの物事や他人との関わりをもっていくなかで、また別の「好き」を見つけることになるだろうし、またそうであってほしいとおもう。

 きのうから降り続いている雨のせいで、予定していた低学年の試合が中止となった。しょんぼりしているのかとおもえば、「気」を溜められるからいいのだといってよろこんで素振りをしている。三連休のあすも試合が組まれているので、なんとかそこでその溜めた「気」を発散してもらいたいものだ。

 結果はどうであれ、好きなことを見つけて一所懸命に取り組んでいる息子を誇りにおもう。

S先生の言葉 (河出文庫)

S先生の言葉 (河出文庫)

 

 

生活のなかの鶴見俊輔。

 道に迷ったときや、自らを振り返ってみるとき、ぼくは鶴見俊輔さんの文章をよく読み返す。じぶんが何者で、なんのために、なにをしようとしていたのかわからなくなると、書棚から引っぱり出す。その頻度は、少なくない。生活のなかには、いつも鶴見俊輔さんがいる。神社にある鏡のような存在として。

 わたしは思想を、それぞれの人が自分の生活をすすめてゆくために考えるいっさいのこととして理解したい。それは、断片的な知識とか判断からなりたっているものだが、おのずから全体をつらぬく傾向あるいはまとまりをもっている。その細部に注目するのでなく、全体のまとまりに注目する時、とくに「思想」とよばれるような対象がはっきりあらわれるのだと思う。人は自分の私生活について考える時にも、人間とはだいたいこんなもんだ、とか、社会とはこうあるべきだ、という一般論を避けることはできない。(「思想」/鶴見俊輔 著『日本の百年』昭和41年 社会思想社)

 たとえば、なぜこの道(仕事)を歩みつづけているのか、ときおりわからなくなる。わざわざ苦手な人間関係に主軸をおくような道を選び、なんども転んでいるにも関わらず、あいかわらずこの道に立ちつづけている。その時々で場所や方法や条件が変わるのだけれど、根っこのぶぶんは変わらないこの道をずっと歩いてきた。いまさら、まったく別の道を選ぶことのしんどさというのが確実に影響しているのだろうけれど、おなじ道であっても現状の画一性のレールを辿ることは耐え難いというめんどうな一面もある。ぐるぐると出口の見えない迷路にまよいこんだとき、具体的なヒントを得ること以上に、そういう自分をとことん掘り下げていくことが、結果的にその先の推進力につながっていることが多々ある。

  変化と共にじぶんの態度も水のようにカタチを変えてはきたけれど、その変化の底を支える信念のようなものだけは、いまも変わらずここに在りつづけているようにおもう。いや、態度も信念もすべてが変化していくのだけれど、その根幹だけが残った状態で新しい思想が生まれる、ということなのかもしれない。

 これまで、なんども心が折れそうになることがあったけれど、そんな自分を支えるものはやはり自分しかなかった。自分なりの思想によって支えられてきたのだ。心にロックを抱いて、直感にしたがって思うままに行動する。なんども転んで心が折れそうになって、その度に反省をくり返し、いつしかそれが自分の生きかたをかたちづくってきたようにおもう。そういった、生活のなかで少しずつまとまりをもっていったものが、自分なりの思想とよべるようなものになっていた。

 思想はまず、信念と態度との複合として理解される。(「転向研究、転向の共同研究について」/鶴見俊輔 著『鶴見俊輔著作集2』1975年 筑摩書房)

 まだまだわからないことだらけで、あたまのなかは混沌としているし、きっとこの先だってまよいっぱなしの人生なのだろうけれど、生活のなかに鶴見俊介という人がいてくれると、少しだけ安心できる。

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山田稔さんのこと。

 きょうも暑い。とにかく暑い日が続いているけれど、家にいるときは熱中症にならないように気をつけながら、できるだけクーラーはつけずに過ごす。なんのためというわけでもなく、ただのケチ根性だけで実践している。

 自然の風だけが頼りなのに、窓際に置いた植物の葉はまったく揺れない。そんな不快な環境にもめげず、熱心な読書家のぼくは(本当はとくにやることもないので)本を読む。時間が経つにつれ、じりじりと不快指数は上昇。それに比例して額は汗のつぶでいっぱいになる。うっかりしていると、そのうちの一滴が本の栞となってしまいそうなので気が抜けない。夏の読書は苦行だ。

 山田稔さんの新刊『天野さんの傘』が出たのをきっかけに、先月からぼくだけの「山田稔フェア」がはじまった。新刊を読み終えたら止まらなくなってしまい、手持ちの著作を片っぱしから読み返している。

 「いい文章とは、いわゆる名文ということではなく、平明で、むだのない、そして読者に親切なわかりいい文章ということなのだ」(「なぜエッセイを書くか」、『鴨涯日日』)

 これは生島遼一の人柄のあらわれである。師落合太郎の教えどおり「生き方そのものがスティル」なのだ。スティルとは「文体」であり、また「姿勢」でもある。生島先生は痩身の、背すじのすっとのびた方だった。そのスティルは最後まで変わらなかった。(「生島遼一のスティル」/『天野さんの傘』2015年7月 編集工房ノア)

  山田稔さんの散文を読んでいると、とてもやわらかな心もちになる。ぼくの表現力では他になんともあらわしようがないのだけれど、読めばやっぱりやわらかな心もちになるのだ。それはきっと、山田さんのスティルがそうおもわせるのだろう。想い出されたことを、思いつくままに書かかれたその自由な文体からは、テーブルを挟んだ向こうでグラス片手に語る氏の姿を想像させる。平明で、親切なわかりいい語り口、すぐに話がわき道へ外れることも多いのだけれど、むだがない。

 師友や文学者、忘れ得ぬ人、山田さんが想い出のなかの人々を書く文章がたまらなく好きで、なかでもとりわけ、詩人・天野忠さんのことを書いたものがいい。

 山田さんは自著が出ると、天野さんの家の前まで行って本と手紙を投函する。天野さんはそれを受け取るとすぐに返事を書いて、山田さんの家の郵便受にお礼の手紙と自著を入れる。近所に住む二人の付き合いは、こんなふうにしてはじまる。郵便受にコトンと音がし、遠ざかっていく足音で気がつくことがあっても、それを追ったりはしない。また、天野さんのお宅を訪問する際も、山田さんはめったに一人では行かない。編集工房ノアの涸沢さんが、天野さんと仕事の打合せをするときに待ち合わせて一緒にいくのだ。この距離感がこころよい。

 二人の絶妙な距離での交遊は、山田さんの散文のなかにも絶妙な距離で描かれている。こうしたやりとりを読んでいると、やっぱりやわらかな心もちになっていく。

 すでに私が読んだり、聞いたりしていることを老詩人が表情ゆたかに、ときには身振りをまじえながらくり返えすのを黙って聴く、ながめる。好きな作家、好きな映画について論ずるのでなく、ただ「よろしいなあ」と歎ずるがごとくに言うそのときどきの声音と表情を、ちょうど噺家のはなしを聴くように聴く。その楽しみのために私は過去十年、この北園町九十三番地へ足を運んできたのだった。(『北園町九十三番地』2000年9月 編集工房ノア)

 あと少しで、好評を博した「山田稔フェア」も終了となる。次はもちろん「天野忠フェア」。この先も、ずっと二人のはなしに耳を傾けつづけていきたい。

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古書肆スクラムのこと。

 この日記を書くのも、ずいぶんと久しぶりになってしまった。暑さと忙しさと怠けグセのせいで、ほぼ1ヶ月くらいあいてしまったのかな。なので、ここのところなんとなく消化不良。読むほうはグイグイ読みまくっているので、そのぶん書かないとうまく消化できない性分みたい。

 さて、きょうはお店の話。

 「古書肆スクラム」という取り組みをはじめて、ちょうど2ヶ月になります。順調といえば順調で、ここで働く所員さんたちの平均工賃も25%アップすることができました。まだまだこれからとはいえ、たくさんの方々に支えられ、いいかたちで滑り出すことができたのではないかとおもっています。いろんな人の顔を思い浮かべては、ありがたくて涙がこぼれます。

 とはいえ、もともと低すぎるくらいに低すぎた平均工賃が25%上がったくらいで満足しているわけにはいきません。いまの状況を意地でも維持し、もっともっと向上させていかなくてはならないのですが、古本屋である以上は、たくさん本を買って、たくさん売らなくて話しになりません。しかし、売るほうは売れるのだけれど、買うほうはというと、これがなかなか難しい。

 ということで、本の買取に関するご案内(というかお願い)です。

 もう読まなくなった本をお売りいただくだけで、一般就労のむずかしい障害者(所員さん)の自立支援につながります。買い取らせていただいた本を所員さんたちがメンテナンスして、データ管理やインターネットでの出品、店頭販売をします。ときどき本のイベントなんかにも参加して、その売上が所員さんたちのお給料となります。そのお給料やここでの経験をもとに、彼らは社会的な自立を目指すのです。本をお売りいただくことが、そのまま社会貢献にもつながっていくというのは、そういうことです。「どうせ売るなら、誰かのためになったらいいな」とおもってもらえたら、ぜひ古書肆スクラムにお売り下さい。

千葉県古書籍商組合加盟店で安心査定!

東京・神奈川・埼玉・千葉ならば、即日出張買取にもご相談に応じます。お品物の量、内容によっては日本全国出張買取いたします。

1.お電話またはメールでご連絡ください

 先ずはお電話下さい。(メールでも可です)
 お電話の場合は、047-303-3840 まで。
 e-mailは koshoshi.scrum@gmail.com です。
 その際買取内容のご相談をさせていただきます。
 予め、商品のジャンルや点数をお知らせ頂くとスムーズになります。
(例:絵本が30冊、文芸書が100冊、専門書が80冊など)
 その他査定についてや、買い取れないもの、不明点はお気軽にご相談下さい。

2.ご訪問日程をご相談させて頂きます
 次に、ご訪問日時をご相談させていただき、予約を確定致します。
 当日がご希望の場合、予約の状況で即日対応も可能です。
 ご訪問時には買取させていただくお品物がすぐわかるようにまとめておいて下さい。
 その場で査定させていただき、現金買取となります。

3.査定・お取引
 ご予約の当日、店主がお客様のところへお伺いし、
 その場で査定→現金にて即日お支払い→商品のお引取りとなります。
 以上で終了です。

※出張買取は当日可能な場合もございます。お気軽にご相談下さいませ。

※状況によりましては出張買取ではなく、着払い宅配買取のご提案をさせて頂く場合もございます。

詳細はお電話またはメールにてお問い合わせください。

〒272-0122 千葉県市川市宝1-5-17

電 話: 047-303-3840

FAX: 047-303-3843

e-mail: koshoshi.scrum@gmail.com

  どんな本を取り扱っているかというと、こんな本です。

 http://koshoshi-scrum-npo.blogspot.jp/2015/08/blog-post_10.html

 本棚に眠っている「もう読まない本」ぜひお売り下さい。どこよりも高く、どこよりも喜んで、買い取ります。

 ご連絡をお待ちしております。

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