ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

本と読書が好きな理由。

こどもの頃、とくに読書が大好きな「本の蟲」ではなかった。でも、『本』は大好きだった。


ごく小さな小石に躓いて転ぶくらいに幼かった頃、うちにあった函入りの「ドラキュラの本」に僕は魅了された。ちょくちょく引っ張り出しては、見てはいけないものを見るようにコソコソと眺めた。もちろん文字など読めないので、重厚な本の感触とその匂い、そして挿画を愉しんだ。わけもわからず、紙の綴りに文字がギッシリと印刷されたそれが大好きだった。文字が読めるようになってからも、本は好きだが熱心に読んだという記憶はない。いつからこんなに本と読書が好きになったのだろう。これはよく人にも訊かれることなんだけど…。


本と読書が好きだという人にも色々なタイプがいる。僕の場合は、比較的シンプルなタイプに該当する…と思う。黒っぽい本(時の洗礼を受けて変色した古い本)、白っぽい本(新刊書や新しめの本)、こだわりなく読みたい本や気に入った本なら買えるだけ買いたい。そして、その本に囲まれていたい。手に取って愛でて味わって読みたい。そんなタイプの本好きだ。もちろん古本者としてのご他聞に漏れず、「買うまでのその過程」も愛し、朝から晩まで古本屋巡りをして安くて素敵な本との出逢いを愉しんだりもする。その他のタイプとして、よりディープな「本の周辺」に興味をもっている人もいれば、読みたい本(必要な本)を買って読むだけという人もいる。本を「物」として捉えるのか、単なる「媒体」として捉えるのか…まあ、これはどうでもいいことなのだけれど。


僕の父も若い頃から読書が好きだったようで、近所の古書店に本を売った話をしてくれたり、部屋に本がドンドンと積み重ねられていたのを覚えている。また、当時隣に寝ていた父が布団にもぐりこんで本を読んでいる姿を今でもはっきりと思い出すことができる。でも、父にたっぷりと本を読んでもらったという記憶はない。だから逆に、数少ない機会として本を読んでもらったことを今でも鮮明に覚えている。その本とは、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』。函に入った臙脂色の本で、表紙の角度をかえると光の加減で二色に変化する。中は赤インクと緑インクの二色刷り。各章の頭に精密な挿画があったはず。物語の中にも「はてしない物語」という同じ本が登場し、それを読んでいるバスチアンが物語の世界に飛び込んで…という物語を僕たち読者が読むという設定。父は、この本を寝る前に少しずつ読み聞かせてくれた。なぜこの本を選んだのか?ひょっとしたら僕が選んだのか?その辺りのことはよく覚えていない。

はてしない物語 (エンデの傑作ファンタジー)

はてしない物語 (エンデの傑作ファンタジー)

  • 作者: ミヒャエル・エンデ,上田真而子,佐藤真理子,Michael Ende
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1982/06/07
  • メディア: 単行本
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親から子への「読み聞かせ」というのは、とても大切なことのような気がする。子に読み聞かせる本を親が真剣に選び、持ったその本の温もりを手に感じながら、息を吐き、腹や喉の動きを伝え、一所懸命に登場人物になりきる姿を見せ、行間の想いや読中・読後の感動を子と分かち合うことこそが、本の楽しさを知るはじめの一歩になるのかもしれない。そんな読み聞かせを含めた「親の読書する姿」は、子を読書に誘うための一番身近なきっかけとなるように思う。
本や読書を好きになるきっかけというのは、後々に自分で選んで掴んでいくものだと思う。僕自身、誰かに「これを読みなさい」と強要された本を読んでも楽しくなかったし、進んで本を手に取るきっかけにはならなかった。それよりも、身近に「本を読む人」を感じること、そこにただ本があることこそが「読書する人の素養」をつくるような気がする。だから、こんなに本が好きになったのはいつからなのかと訊かれて考えてみると、やっぱり「はてしない物語」を読んでもらった記憶と、父が読書灯の下で煙草の煙をくゆらせながら読んでいた姿だったように思えてならないのだ。