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ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

読書とアンソロジーと饗宴と。

もう何度目だろう。バクスターの『愛の饗宴』を読み返した。いつも通り、なんでもない人たちによるなんでもない話。いつも通りに安心できる小説。いろんなカタチの「愛」が食卓の上に並べられた「饗宴」のような短編集で、読者はそこへやさしく招待されるのだ。
何年か前にもこの小説を読み同じような言葉で日記を書いた。あれからずいぶんと時は流れ、あの頃とはまた違った感想をもてるような生き方ができていたようだ。読み終わってみてボンヤリと回想したのは、愛とは遠いこんなことだった…

愛の饗宴

愛の饗宴

「人生において、一番大切にしていることは何ですか?」と訊かれたら、僕は「出逢いです」と答える。ひと言に「出逢い」といっても様々なカタチがある。人はこの言葉からまず何を想像するのだろうか。たとえば少し目を閉じて考えてみると…学校、職場、旅、運命、愛、恋、別れ、友情、裏切り、憎しみ、成功、失敗、幸、不幸、今、過去、未来、永遠などなど、数え切れないほどの想いが溢れ出てくる。
いつも最高の出逢いでというわけにはいかないかもしれないし、出逢わなければ良かったと思うことだってあるかもしれない。それでも人は誰かと出逢うために生きているのだと僕は思う。人生の大切なポイントで人は必ず人と出逢う。それがどんなカタチであれ、人は人から影響を受け、そしてそこから何かを学ぶものだ。
でも、そんな当たり前の大切なことを忘れてしまい、人との出逢いに鈍感になってしまうことがある。ある時期、人が人を拒否することがあってもそれはそれでよい。誰にも逢いたくないことだって人にはあるのだから。でも、出逢えた人(こと)に感謝するということは忘れてはいけない。「運命の人」を探すよりも、すでに出逢えたその人を大切にするべきだと思う。今、目の前にいるその人を。あなたに出逢えてよかった、だから今の自分がある…そんな気持ちをいつまでも大切にしたい。


人との出逢いを大切にする一つのきっかけとして、また一つの方法として、「一緒に食事をする」という「饗宴(おもてなし)」は欠かせないものだと僕は思っている。
もちろん、一緒に食事をすることだけが全てではないけれど、一歩距離を縮めるのにもってこいのシチュエーションだと思う。あまり文明の発達していない国であっても、先進国と呼ばれる国であっても、出逢いを大切にしよう(歓迎しよう)という姿勢としてそれぞれのカタチで饗宴を催すことは常である。大切な家畜をつぶして丸焼きにしたり、自宅の夕食に招いたり、パーティーや宴会を開いたりすることこそが饗宴なのだ。


10年以上前に、尊敬していた上司から「のし上がりたかったら、給料を全部つぎ込んででも食事に誘え」と言われた。実際にその人は給料を全部つぎ込んで(若い頃から何年もかけて)、あらゆるネットワークを構築していた。もちろん、その人の魅力や能力もあってのことだけれど、本当に驚くような著名人とのコネクションがあって、芸能界から政界まで、幅広く関係を築いていた。おかげで僕もそういった人たちと話をする機会を持つことができ、たくさんの「目には見えないチカラ」を吸収させて頂いた。そして、今の僕がいる。本当にとても感謝している。でも、僕がここで言いたいのは「のし上がるための能書き」ではない。「一緒に食事をする」という過程を経て、より親密になるチャンスが生まれるということなのだ。食事というのは記号的に受け入れるものではなく、一つの儀式として考えることで、より本来の意味を明確に引き立たせることができるように思う。出逢えたことへの感謝や喜びを表現するための饗宴、そして相手との心の距離を縮めより関係を深めるための饗宴。おもてなしのココロは人と人とを結びつける大きなきっかけとなるのだと思う。


バクスターを読んでこんなことを考えてみるのもおかしいのだけれど、人との出逢いを大切にするということは、「人という壮大な物語」のアンソロジーを饗宴によって確かな実感にかえていくということなのではないだろうか…と、あの頃に想いを馳せつつ今の自分を見つめてみた。


読書とは自分の中の物語を読むことでもある…なんてね。