ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

至福のとき。

僕にとっての「至福のとき」とは、「本を読む」そのときだ。
楽しいことや好きなことはいっぱいある。 子どもとの時間、妻と二人きりの時間、友人や仲間との時間、呑み会をしているとき、ひとりで呑んでいるとき、仕事が絶好調に捗っているとき、野球をしているとき、楽天イーグルスが勝っているとき…など。でも、しみじみと「ぼくって幸せだなあ」と感じるのは、映画を観ているときとか、のんびりとした贅沢な時間の中で本を読んでいるときなどだ。もともと一人で過ごすということがまったく苦にはならない。なので、このような時間を僕はこよなく愛する。映画は二人で観ていても一人になれるからいい。でも、読書の場合はそう簡単ではない。誰にも邪魔されず、ひたすらに本を読みたい。邪魔をされても気づかないフリをして本を読みたい。それで怒られても知らんぷりをして本を読みたい。とにかく何があっても黙々と本を読みつづけたいのだ。何が僕をそうさせたのだろう…。

僕の実家は、「武道具屋」を営んでいる。幼い頃、学校が休みの日は父と一緒にお店に出勤していた。あまり外に遊びにも行かず、ちょこんとお店の隅っこに座って本を読んだり、空想の世界で遊んだりして過ごしていた。お店の定休日が水曜日だったということもあり、友だちのように家族で旅行に行ったり、海に行ったり、遊園地に行ったりしたことがない。そのかわりに父は本を買ってくれたし、お店が休みの日には映画へ連れて行ってくれた。ほぼ毎週のように、学校が終わってから待ち合わせをし映画を観にいった。子どもが喜んで観るような映画が公開されていなくても、なにかしらの映画を選んでは観た。檀一雄の「火宅の人」や、伊丹十三の「たんぽぽ」など、およそ小学生の僕が観てもよく理解できないような映画も観にいった。父と一緒に映画館に行けるということが嬉しくて、しっかりと食い入るように映画を観た。二人でお風呂に浸かりながら、その日観た映画について論評し合ったことを憶えている。

火宅の人 [DVD]

火宅の人 [DVD]

そんな思春期に読んだ本で記憶に残っているのは、児童文学全集と漫画本と星新一だ。児童文学全集については、祖父に強要されて「読まされた」という感覚が強く、今も「苦痛の記憶」となって心の奥に残っている。漫画本については父もわりと好きだったので、情報を交換し合いながら二人で気に入ったものを手当り次第に買って読んだ。古谷三敏の「手っちゃん」なんて大好きだったなあ。周りでは誰も読んでなかったから、自分だけのものみたいな感覚があった(また読みたいなあ…と思ってネットで探したらあった!しかも安い!)。

小説というか、それらしきものを好んで読むようになったのは、星新一ショートショートに出会ってからだと思う。本当に夢中になって読んだのだけれど、そんな幼心に芽生えた「読書欲」「蒐集欲」を満たす支えになってくれたのは、やはり近所の古本屋さんだった。均一台に詰め込まれた1冊10円の文庫本に、僕はどれだけ救われたことだろう。今の僕の原点は、そんなところにあるのかもしれない。でも、その古本屋さんの均一台にある「たった10円の本」さえも買えないようなときがちょくちょくあって(子どもにも付き合いってものがあるので…)、そんな時は近隣の児童図書館に入り浸って大好きな物語を読み漁っていた。
いよいよ青春真っ只中になると、今度は本格的に小説を読むようになった。その当時、僕は日本文学よりも外国文学の方がはるかに好きだった。言葉を文章として産み落とした著者自身の言葉ではない、まるで代理出産のような翻訳書に、僕は冷たいような乾いたような、日本文学にはない一種独特で魅力的なシビレを覚えた。それからしばらくは本当に外国文学ばかりだった。日本の文学、特に私小説と呼ばれる作品を好きになったのは…長くなるのでその辺の話はまた別の機会に書くこととしよう。

僕の場合、映画を観るときも、読書をするときも、その背景にはどうしても「思い出」が見え隠れする。集中して愉しんでいる最中にも、ふと過ぎ去った時間に想いを馳せる瞬間がある。僕にとっての「至福のとき」とは、観ている、読んでいる、目の前の手に取れる物語以上に、実は過ぎ去った時間(思い出)の中の物語を追うことにあるのかもしれない。