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ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

空中楼閣。

ぼくは平生ぼんやりとしている。ぼんやりとしながらも実はいろいろと考えているのだが、その考えていることの大半がどうでもよいことばかりなので、結句なんの役にも立たない。昨晩もぼんやりと天井を眺めながら、地震のことや古本のことなどを考えていた。どれくらいそうしていただろう…ふと気が付くと、そんな自分を見ているもう一人の自分がふわりと天井の辺りにいて、他人のような自分のその姿を見つめるうちに、なんとなく「虫のいろいろ」のことを思い出した。「虫のいろいろ」は、戦後期を代表する私小説(心境小説)作家 尾崎一雄の代表作であり、ぼくの好きな作家の好きな短編の一つでもある。その短編の中に、「天井板に隠現する蜘蛛や蝿を眺めながら、他に仕方もないから、そんなことをうつらうつらと考へたりする。」という一文があるのだが、なんだかそれが鳥瞰した自分の姿と妙に重なって思え、「虫のいろいろ」という小説を思い出すに至ったのだ。とにかく思い出したらどうにも読みたくなってきて、すぐに書斎へと向かい本棚からすばやく一冊ぬくと、寝床に潜り込んでさっそく読みはじめた。そうしてしばらく読んでいるうちに、このあいだの地震を体験してからというものずっと考えていたことと同じような感覚で書かれている一節を見つけ、ぼくは小さく身震いをしたのだった。

 
『私がこの世に生れたその時から、私と組んで二人三脚をつづけて来た「死」といふ奴、たのんだわけでもないのに四十八年間、黙って私と一緒に歩いて来た死といふもの、そいつの相貌が、この頃何かしきりと気にかかる。どうも何だか、いやに横風なつらをしてゐるのだ。そんな飛んでもない奴と、元来自分は道づれだったのだ、と身にしみて気づいたのは、はたち一寸前だったらう。つまり生を意識し始めたわけだが、ふつうとくらべると遅いに違ひない。のんびりしてゐたのだ。二十三から四にかけて一年ばかり重病に倒れ、危ふく彼奴の前に手を挙げかかったが、どうやら切り抜けた。それ以来、くみし易しと思った。もっとも、ひそかに思ったのだ。大っぴらにそんな顔をしたら彼奴は怒るにきまってゐる。怒らしたら損、といふ肚だ。急に歩調を速めだしたりされては迷惑する。かういふことを仰々しく書くのは気が進まぬから端折るが、つまるところ、こっちは彼奴の行くところへどうしてもついて行かねばならない、じたばたしようとしまいと同じ…このことは分明だ。残るところは時間との問題だ。時間と空間から脱出しようとする人間の努力、神でも絶対でもワラでも、手当り次第掴まうとする努力、これほど切実で物悲しいものがあらうか。一念萬年、個中全、何とでも云ふがいいが、観念の殿堂に過ぎなからう。何故諦めないのか、諦めてはいけないのか。だがしかし、諦め切れぬ人間が、次から次と積み上げた空中楼閣の、何と壮大なことだらう。そしてまた、何と微細セン巧を極めたことだらう。』(尾崎一雄「虫のいろいろ」)

暢気眼鏡・虫のいろいろ―他十三篇 (岩波文庫)

暢気眼鏡・虫のいろいろ―他十三篇 (岩波文庫)

ぼくには筆者のような経験がないため「死」について「くみし易し」と思えたことはないのだが、職業柄、人の死に目にあうことは多いので、「彼奴(死)」の存在についてはしみじみとよく考える。彼奴はそのパートナーによって表情を変える。「いやに横風なつらをしてゐる」こともあれば、「優しく微笑みかけている」ように見えることもある。おそらく、生まれたその時から「死」と二人三脚である以上、自分の心がけ次第でパートナーとなる彼奴の出方も変わってくるということなのだろう。筆者も「大っぴらにそんな顔をしたら彼奴は怒るにきまってゐる。怒らしたら損」といっているが、普段の心がけには十分な注意が必要なのだ。但しここで間違えちゃいけないのは、『真面目で直向きに生きているから「いい死に方ができる」という意味ではないし、事故や災害や苦痛を伴う病気で亡くなった方は「心がけに問題があったせいだ」などということでは絶対にない』ということである。逆に、もしそんなことを本気で信じている人がいるのだとすれば、それこそ「次から次と積み上げた空中楼閣」な戯言に過ぎないではないかと思う。本当に大切なこととは、「どんな死に方をしたのか」ということよりも、「どんな心もちで死を迎えることができたのか」ということなのではないだろうか。また、筆者の強い思いが込められた後半の五行を読む限り、これは現代で云うところの「延命医療」についての言及とも受け取れる。とどのつまりは、やはり「どんな心もちで死を迎えるのか」というところに繋がってくるのである。
 

ぼくが考えるに、「彼奴」を怒らしてしまう一番の要因とは、「後悔するような生き方をすること」なのだろうと思う。二人三脚の途中で一方が後悔の念をもって後ろを振り返ったりすれば、たちまちバランスを崩して転倒してしまうだろう。また、仲違いし、怒り、怒らせ、急に歩調を速めだしたりすれば、やはり転倒の可能性は高くなるのだ。一生のパートナーである「死」と二人三脚で進むとき、ゴールとは果たしてどこにあるのだろうか。明確なゴールがたとえ見えていなくとも、その間際に後ろを振り返って後悔するような生き方は誰しも望まないところだろう。「死」とは決して恐れるものではなく、自分の歩むべき道のりを指し示してくれるベストパートナーなのである。時に叱咤激励をしてくれる、人生という名の「終わりなき旅」を共に歩む友なのである。「死」の存在に気づけば「生」への心もちが変わってくる。心もちが変われば「生き方そのもの」が変わってくる。生き方そのものが変われば、「死の迎え方」も変わってくるだろう。そう、死と生はぐるぐると輪っかのように繋がって共存しているものなのだ。切っても切れない関係…そんな風にぼくは思う。どうで一緒に歩まざるを得ないパートナーなのであれば、最後を迎えるその時まで仲良く共存したい。そんな仲良く共存するためのヒントについて、筆者はこんな一文を遺してくれている。ここにその一文を書きとどめ、ぼくの空中楼閣な戯言も終わりとしたい。

 
『この頃、永生なんてどうでもいいと思うようになった。どっちでもいいのである。生きている間だけ生々と生きる、それでいいと思うようになつた。』(尾崎一雄「梵鐘再建」)