野。
最近、なんだかよく独り言を言うようになったような気がする。
自分で思うだけならいいのだが、人から「独り言が増えたよね」などと言われるのは、「お前も年を取ったよな」といわれているような気がして甚だ面白くない。それにしても、独り言が増えるというのは一体どういうことなのだろうか。
上林暁の小説に「野」という短編がある。私小説家である彼は、その作品の中で自身の独り言について以下のように言及している
《「僕はこのごろよく独り言を言うようになった。まだ独り言を言うほど老い込んだわけでもないのに、気がついてみると、家の中でも道を歩いていても、銭湯のなかでも、いつの間にか独り言を言ってしまっている。それは、私の孤独のさせるわざだ。私はいま全くの孤独のなかに生活している云々」と書きかけにしてあったところ、机の上を掃除していた妻がふとそれに目を留めたのだ。》(上林暁 著『野』昭和15年 河出書房)
書きかけのその原稿を見られた上林も辛かっただろうが、見てしまった奥さんも相当に辛い。「私がいるのに孤独とはなんです」と言って上林に詰問する奥さんの悲しみとやるせなさは、痛いくらいに想像できる。また、それを書いた上林の気持ちも、ぼくには同じくらい分かる気がする。上林が云うところの「人間の心の奥に棲んでいる、決して満たされることのない孤独の鬼」の存在をぼくも知っているからだ。普通なら口に出すことのない「心の奥の鬼」について、私小説家であるが故に書かざるを得なく、またそれを妻の眼に晒してしまう辛さを想像すると、まったくやりきれない。決して妻を蔑ろにして孤独と言っているわけではないのだが、妻にしたって、一つ屋根の下で暮らすものに「孤独だ」といわれたらやりきれないだろう…。いやはや私小説家にだけはなりたくない。
孤独という気持ちは「野」に似ている。漠とした平地の果てしなく続く、そこはかとない哀しみの広がりをイメージさせる。そんな「野」の中にあって、人は老いと共に多くのものを失いながら、最期の時まで歩んで行かねばならない。誰にともなく話をすることに、なんの不思議があろうか。
最後に、上林は「野」について最も悲しい思い出として、妻が神経衰耗に陥って入院したことを挙げている。心の奥の孤独の鬼は確かに怖い。しかし、大切な妻を失うかもしれないという悲しみの前では、影を潜める程度のものなのかもしれない。
「野」は、いつだって、ぼくの目の前に広がっている。
- 作者: 上林暁
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2010/11/11
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