ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

蚯蚓の詩。

気がつくとそれを読んでいる…という文章がある。それは、小説であったり、随筆であったり、詩であったりする。


ぼくのようにあまり詩に詳しくないものでも、気がつくと読み返している詩がある。なにが詩で、なにが詩ではないのかも、実はよく分かっていない。あるいは「詩のようなもの」といった方がよいのかもしれない。


蚯蚓の詩』


目がなくとも
鼻がなくとも
かまふもんか。
行け!
進め!
行け!
進め!
久し振りに雨が降つて
いいしめりぢや。
行け!
進め!
行け!
進め!
手がなくとも
足がなくとも
かまふもんか。
からだをのばし又ちぢめ
からだをのばし又ちぢめ
行け!
進め!
行け!
進め!
おれ達は
おれたちの力で
行きつくところまで行きつけ!


「メクラとチンバ/木山捷平 著(昭和6年 天平書院)」


忘れもしない。木山捷平の「耳学問」という、状態のよい函入・限定本を、古本屋さんの均一台から三百円で拾ったのが12年前。なんて面白いのだろうと思い、夢中になって捷平さんの本を探すようになった。「耳学問」以降、つまり昭和30年前代以降の作品は手に入れやすいのだが、それ以前のものは見つけられなかった。まあ、見つかったとしても買えないのだけれど…。そうこうしているうちに、講談社文芸文庫から続々とシブめの作品が文庫で登場し、また思いきって全集を買ったりもして、ほとんどの作品は読んでいると思う。詩にあまり興味のなかったぼくが、捷平さんの詩を読むようになったのもそんな頃だ。


捷平さんの詩をはじめて読んだときの感想は、衝撃的であり笑撃的だった。貧乏生活の中から切り取られた直向きさとユーモア。それらは、なぜか少し時間をおいてからじんわりと沁みてくる。たとえば、日向ぼっこをしながら捷平さんの詩を読むと、夕食後にお茶を入れる段になって沁みてくる。なにかと思ってじんわりを辿ってみると捷平さんなのだ。じんわりのやりどころに困ってしまう。そんな捷平さんの詩を読み進めていくと、読んだ瞬間に深いところまで届き、グーッと沁みてきたものがあった。それが「蚯蚓の詩」。この詩を読むと、ぼくはすぐに「よしっ!」と思える。もってまわったところもなく、とってつけたようなところもない。単純というか、真っ直ぐというか、子どもの詩のような力強さと優しさがよかった。身の毛もよだつ…という人もいるかもしれないけれど、この詩を読むと、すぐそこに蚯蚓がいるような気がしてくる。くねくねと身をよじりながら一心不乱に前へ進もうとするその光景が、すぐ目の前に浮かんでくるのだ。一見ユーモラスなその光景の中に見える直向きさは、いつだってぼくの心を打つ。


このような混乱の世にあって、「なにが詩だ」と言われてしまうかもしれない。しかし、このようなときにこそ、詩を含めた「文学の力」が必要なのではないだろうか…そんな気がしている。


なくてもよいものは、あってもよいもの。

木山捷平全詩集 (講談社文芸文庫)

木山捷平全詩集 (講談社文芸文庫)