ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

読書のチカラ。

読書というのは、その日の気分で「読みたいもの」が変わる。前日の夜に仕込んでおいた本も、翌朝になると「いや、これは今日の気分にはミスマッチだな」ということがある。たとえ時間がなくとも、本の山の前にどっかと腰を下ろして、しっかりと読むべき本を選ぶのが読書人たるもの。一冊にしぼりきれない時には、重くったって3〜4冊を持って歩くくらいは苦でもない…?もちろん読みきれるわけはないのだけれど。とにかく、常に本を持って歩く習慣がついているのだ。墓参りにも、結婚式にも、お風呂にも、トイレの中にも、ぼくはどこにだって本をつれて歩く。もちろん寝床にだって抱えるくらいは置いている。すぐ手に取れるところに本がないと落ち着かないのだから仕方がない。
少し話しが逸れてしまったが、「その日の気分で読みたい本」というのにも色々あって、その一つとして「何度読んでも同じところで泣かされてしまうような本」というのが挙げられる。ぼくの好みは、静謐な文章の中にあって強く心を揺さぶられるような小説だ。

 
ぼくの読書は同じところを行ったり来たりする。心におちた文章を何回もなぞるという意味もあるが、同じ本をくりかえし何度も読むという意味でもある。読まれる順番を待っている本が家にはたくさんあるのに、性懲りもなく新しい本を次々に連れ帰っては、その待ってくれている本の上にさらに積み上げていく。読むのは書棚に挿された「愛読書」ばかりだというのに…である。積読(つんどく)も読書のうちというが、実際に積まれている本たちにしてみれば、そのままでは決して「本望」とは云えないんだろうな、とは思う。反省などしないが。そんな気の毒な積読の山を尻目に「愛読書」としてくり返し読まれている本、なおかつ「何度読んでも同じところで泣かされてしまう一冊」というものを挙げるとすれば、外村繁の『夢幻泡影(昭和24年)』が正にそれだ。この小説の最後の部分に、決まっていつもやられてしまう。

 
《…「さあ、御明答ですよ。これから土の中へ入るものですか」
「そうです」
「どうだい。それみろ。この間まで、動物でしたか」
「そうです」
「父さんの最愛の動物でしたか」
「やられたな、まあ、そうです」
「まあ、なんて、御遠慮もなく。若しも中風でなかったら、足で背中掻けると、言いましたか」
「始終、ぼろぼろの財布持って、お使いに走って行きましたか」
「よいとまけみたいな、襦袢着ていましたか」
口口に言っては、わっという笑声だった。
いかにも最早壺中数片の骨に過ぎないではないか。
が、私もあはあはと笑ながら、またしても電灯の灯が、しどろもどろに乱れてくるのを、私はどうすることもできなかった。》


これは、脳軟化症と中風に苦しむ妻を介護する「私」の心の葛藤と死生観が、いわゆる「病妻もの」の私小説として書かれた名作である。先に引用した文章は、妻が亡くなった後、毎日を泣いて暮らす主人公が「妻の死をようやく受け入れようか…」という段階に辿り着いた頃の一場面で、この小説の結びにあたる。主人公曰く「子供たちと愚かな遊び(連想ゲームのような遊び)」をしているところだ。


家族の介護をするということは、口でいうほど簡単なことではない。近しい家族であるが故の葛藤がある。切れ目なく続く毎日に逃げ場はない。だから介護するものは自身で安息時を作る。ところが、その安息時に介護を必要とされた時、介護者には複雑な葛藤がより顕著なものとなって襲いかかるのだ。その葛藤は、家族の死後に「後悔」となって追い討ちをかけてくる場合がある。愛する者がすでに自分の在るこの世界にはいないという「哀しみ」と「曖昧な空洞」は、そういった「後悔の念」を増強させる。では、救いはどこにあるのか?その答えを見つけるための手がかりを、作者はこの短い小説の中で教えてくれる。読み手がその答えに近づいた時、「私」は酔い痴れて「子供たちと愚かな遊び」を回想しはじめるのだ。ここまでくると読み手は、「慮る」というよりも、まるで「自分のこと」のように没入していて、たわいないやり取りの向こうにあるそこはかとない哀しみに身を委ねざるを得ないのだ。もう泪が止まらない。


元気になりたくて「泣きたい」ということがある。そんな時には、文学や音楽やアートの力を借りて泪を流すのも悪くない。矛盾しているように聞こえるかもしれないが、泪を流すことで満たされ潤うことがある。


心が渇いてしまうほどの不安や恐怖や哀しみに負けないように、読んで、聴いて、観て、感じること。

澪標・落日の光景 (講談社文芸文庫)

澪標・落日の光景 (講談社文芸文庫)