ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

あの頃。

薄暗い毎日にも、だいぶん慣れてきた。
いや、むしろ今の薄暗い毎日のほうが心地好いとさえ感じる。
雑誌のコラムなどを読んでいても、3・11以降の暗い生活について書かれたものはかなり多い。人生の先輩方は、この暗さが懐かしいらしい。ぼくの物心がつく前、つまり1970年前後の「あの頃」に思いを馳せているようである。
もちろんぼくは「あの頃」を知らない世代なので、1970年代というと、西岸良平さんの「三丁目の夕日」をすぐに思い浮かべる。読むだけでほのぼのと幸せな気持ちになる大好きな漫画だ。この中に「一平」という子どもがちょくちょく出てくるので、なんだか他人事のような気がしなくて読んでしまう。

少し話が逸れてしまったが、必要以上に煌々と明るい世の中というのは本当に必要なのだろうか。ぼくたちが生きていく上で、本当にこんなに電気が必要なのだろうか。ここで原発がどうのこうのと云うつもりはないが、このような事態に遭ってみて、はじめて電気というものについて深く考えさせられたのだ。今頃?そう、今頃。危機感がないと云われれば、全くその通りだと思うし、無責任だと云われれば、無責任に生きてきてしまいましたと云うより他はない。これからだってこの危機感のなさと無責任さが大きく変わり、世の中のために何か役に立つなんてことはないだろう。が、そのことに気付いたのは確かだ。気付くというのは、それだけでまず大切なことなのだと思っている。


ぼくらは電気なしには生活ができないほど電気に依存している。電気が停まれば家にも帰れないというのだから情けない。電車やエレベーターが動かなければ身動きが取れない現実。そして極めつけは、遊びの部分にまで電気を使う世の中になってしまったということ。哀しすぎる。かくれんぼや缶蹴りはテレビゲームに、パチンコも手打ちから電気に、会話はメールに、読書まで電子化ですか…なんでもかんでも電気だ。電気なしには遊ぶことも時間を使うこともできないのか。なんだか淋しいなあ。遊びと電気、すでに失われたものや失われつつあるもののキーワードがここに見え隠れしているように思う。三丁目の夕日のテーマでもあるのかなあ…「あの頃」あって「今」はない大切なものってあたりは。


とにかく日本は明るい。その明るさは、ほど良さを超えてギラギラしている。夜も然り。一晩中ギラギラした街は、人の心や頭もおかしくするような気がする。暗くなったら寝るという当たり前さが失われ、一日中昼間のような世界に生きるというのは、少なくとも健全な日常ではないはずだから。夜間ギラギラしていて喜ぶのは一部の大人だけなのに、その一部のための無駄が大きい。大人が楽しそうにやっていれば、子どもだって興味をもつ。ギラギラした街で、果たして子どもたちは健全に育つのだろうか。こんな世の中で生きる子どもたちが健全に育つというのは、ほとんど奇跡に近いとすら思える。まったく最低の国だ。いつからこんな最低の国になってしまったのだろう…。


こういう話をすると、すぐに「景気」の話にもっていかれてしまうが、そんなことよりも大切なのは「健全さ」を取り戻すことなんだとぼくは思う。なによりもまず、庶民が安心して暮らすことのできる健全な世の中を取り戻すべきだ。底辺に住む貧しい庶民の戯言だが、ピンチをチャンスに生かす、まさにその時が今なのではないだろうかと声を大にして言いたい。


「あの頃」を想像しながら、ひとり薄暗い中でぽつりと考えてみる。