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ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

食べちゃいたいような本。

「食べちゃいたいような小説がある」と云ったのは、小説家の田辺聖子である。このキモチはホントによく分かる。好きで好きで、いとおしくて、抱きしめて寝て、それでもまだ足らないから食べちゃいたい小説というのは確かにある。ぼくの場合、文字どおり本当に本を食べちゃったこともあるくらいだ。まあ、このときは「いとおしさのあまり食べちゃいたい」ということではなく、お金を使い果たして「その日食うものに困って仕方なく」という切実な状況にあっただけなのだけれど…。どんなふうに?「少年ジャ○プ」の背を外してバラバラに解体し、熱湯に溶いて一気に飲み干した。インクの油がほどよいアクセントになっていて…おそろしく不味かった。お腹にはたまるけど、おすすめはしない。


食べちゃいたいような本というのは、あちこちへ持って歩きたい本でもある。持って歩いて何度も飽きずに読み返し、すっかり傷んでしまい同じ本をまた買い直す…というようなことも一度や二度ではない。ボロボロになるまで繰り返し読むような小説は、一字一句まるごと味わい尽くすくらいに好きなわけで、そういう意味において本当に食べているのと大差ないように思う。
しかし、食べたくても食べれない本というのもあって、それが一番困る。やっとの思いで買った古本がデリケートな状態にあった場合、恐ろしくて気軽に読もうとは思えないからだ。そんな古本は大抵が高価だったり希少性が高かったりもするので、うっかり気軽に食べてしまうわけにはいかないのだ。本末転倒な話、どうしても読みたくて、ぼくのそばにずっといてほしくて買った本ほど、実際には読むことができず、長い間本棚の一番眺めのよいところに鎮座しておられる。


本を「いとおしい」と感じる要素にも色々あるが、装幀のもつ魅力というのが占める割合はかなり大きい。LPのジャケ買いなんていうのもその最たる例だが、本の装幀買いというのもあったりするのだ。
田辺聖子さんのエッセイ『本を食べる(「篭にりんご、テーブルにお茶……」昭和50年8月 主婦の友社)』の冒頭でも、この装幀の魅力についてが書かれている。「大好きな本を、世界にたった一つの装幀で仕立てて持つことが夢だ」田辺さんはそう語る。この夢が実現したのかどうかは分からないが、本が好きな人なら誰しも一度は思い描く夢なのではないだろうか。このエッセイの中にも登場するブックデザイナー栃折久美子さんの著書『製本工房から』や『モロッコ革の本』などを読めば、そんな装幀の魅力にとり憑かれてしまった人のキモチをより深く理解することができる。製本工芸を学ぶためにブリュッセルまで行っちゃうほどの魔力とは一体なんなのか。ぼくも、はじめてこのような本を手にしたとき、まるで茶器を鑑賞するときのような慈しみと慎重さでもって手触りを愉しんだ。このような本を超えた工芸品としての本は、とりたてて本が好きではない人だって、きっと貰って嬉しいプレゼントになるだろう。ましてやそれが愛読書だったら…想像しただけで気絶しそうだ。


そういった手づくり工芸本の魅力とはまた別に、愛書家を満足させる装幀というのもある。最近では、一人出版社である夏葉社さんの『昔日の客』や、港の人さんの『きのこ文学名作選』などがまさにソレである。一見して愛でたくなる装幀、愛書家なら読んで納得の内容、いつまでも撫でさすっていたくなる、「もの」を超えた「存在」だ。きのこ文学名作選に至っては、趣向を凝らしすぎてぶっちゃけ読みにくいのだが、その読みにくさまでをも魅力に変えてしまった圧巻の一冊。まったくこれには恐れ入った。

きのこ文学名作選

きのこ文学名作選

昔日の客

昔日の客

田辺聖子さんも云っているが、よみすてられるような本、そんな本しか読まない人は不幸である。本をただの「もの」としか見ていない人は、食べちゃいたい本にまだ出逢えていないというだけのこと。それは本当に不幸なことだよなあ…そんなふうに、ぼくもぼんやり考えた。新たな幸せを発見したい?だったら、とにかく本を手に取ること、そして読むことである。


幸せはいつもあなたのすぐそばに。