ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

ひねもすのたりのたりかな。

ぼーっとしながら暢気にふらりふらりと古本屋さんへ行く。
均一台に気になる本があり、何気なく手にとってパラパラとめくる。
おもしろい言葉を見つけ、そのまま少し読んでみる。
そのまま置いては帰れない。
よし、買おう。
ぼくは、そんなふうな散歩をよくする。
ひねもすのたりのたりかな。


詩人の天野忠さんの著作に『そよかぜの中(1980年 編集工房ノア)』という随筆集がある。ぼくのお気に入りで、くりかえし丹念に読んでいる一冊だ。その中に「道草」という小品があり、ふらりふらりとぼくと同じように散歩をしているところが書かれている。はじめてこの本に出逢ったとき「近しい人だなあ」という親近感を感じ、水たまりに映った青空のような清々しい優しさがあんまり気持ちよくて、すっかり好きになってしまった。



散歩の途中で古本屋さんの均一台にある本を手にとって買うなんてことは、古本が好きで古本屋巡りをする人であれば誰もが当たり前に経験することだ。ぼくが天野さんに親近感を覚えたのは、そこではなくもう一歩先の部分にある。それは、幸田文の『猿のこしかけ』という随筆集を天野さんが均一台から拾い、さらには「妙にでくりとおさまってゐて」という言葉を文中に見つけて「おもしろい」と感じるところである。「でくり」とはなんだろう?作者一流の造語か?あれこれと考え、すっかり掘り出し物を手にした気持ちになる。けっきょく天野さんはその随筆集を買って帰り(ぼくも買って帰った)、家でその言葉をもう一度探す。ところが、なかなか目的の「でくり」が出てこない。かわりに「ずぼらん」や「とろんとろん」という言葉を見つけ、はて?この言葉は…と、目的を忘れて道草を食う。さすがにここまで一緒ではないのだけれど、ぼくも幸田文さんのこのような言葉遣い(表現)に魅了され、ちょくちょく読んでは道草を食っているファンの一人である。ちなみに、天野さんがその時に買った『猿のこしかけ』は函なしで状態の悪いもの。ぼくの買ったものは函付き署名入りで状態はまあまあであった。もちろん均一で。ふふふ…。


好きな本に出逢えるよろこびは、人生の連れ合いに出逢うよろこびとどこか似ている。好きな言葉や文章、そして好きな作家に出逢えるというのは、人生最幸のよろこびである。まだ出逢えていない最幸の本がどこかにあると想像するだけで身体がじんじんとよろこぶ。文字どおり、本当に身体のまん中あたりがじんじんとあたたかくなるのだ。だから今日もぼくは、出逢いを求めて本屋さんへと足を運ぶ。


のんびりと、ひねもす本のことなど考えながら、ふらりふらりと道草を食って生きていけたら、それでいい。