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ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

心に降る雪。

心にも雪は降る。


白い雪片が視界を悪くし、体温を下げる。


それは惑いによって生みだされる幻覚かなにかなのかもしれない。


野呂邦暢の『狙撃手(「海辺の広い庭」昭和48年 文藝春秋社)』という小品を読むと、最後の場面でこの雪が降る。いや、ぼくが勝手に「心の雪」と読んだだけで、実際に降りだした雪だったのかもしれない。


抜擢された射撃の名手の心の動きを、著者ならではの丹念な筆致で書いた秀作。読み進めるうちに、いつしか読み手も主人公の日奈高雄の動揺と共鳴する。標的と自分との間に生じる静寂。的確に撃ち抜かれる黒点。読み手は次第にジリジリと追いつめられ、日奈と一緒に動揺を確かめあうこととなる。サスペンスのような緊迫感ある純文学。軽い痺れと恍惚…そしてクライマックス。そこで雪は降りはじめるのだ。

この小説がぼくにとって印象深いのは、ぼくの心に降る雪と小説の中に描きだされた情景があまりにも酷似していたから。小説を読んでいて「同じだ」と感じることは、きっと誰にでもあるはず。代弁のようであったり、既視感のようであったり。そんなふうな自分に近い不思議の感覚を、ぼくはこの短編の中に見つけたのだ。日々の考えと同調する物語について、ぼくはこれまでにもこのブログに書いてきたのだが、こういう特異な感覚というのはそうそうない。だから特別印象深いものとなっているのだろう。


的確に進む状況の中で生じる極限の緊張と自信と恍惚。その間で耐え難いほどに心臓が鼓動を打つ。そして意味不明な善悪を自分の中に問いかける。今のぼくにとって何が善で何が悪なのか。本当にこのままでよいのだろうか?そんなときに決まって雪は降る。ガラス程度の強度しか持ちあわせていないこのハートを護るために、ぼくの中の深いところにある安全装置が作動するということなのかもしれない。うまく説明できていないなあ…。雪が降るかどうかは別として、射撃の好きなぼくの父ならこれに近い感覚が理解できるのではないかと思う。こんど酒の肴に聞いてみよう。


心にも雪は降る。


白い雪片が視界を悪くし、体温を下げる。


それは惑いによって生みだされる幻覚かなにかなのかもしれない。


でも、冷たくなった手は、たしかにかじかんでいる。