ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

本の重さは安心の重さ。

ぼくは、前日の夜に翌日読むための本を選んで鞄に入れておくということを日課にしている。どんな本が明日の自分にぴったりなのかと想像しては胸を高鳴らせている。ところが、本を読むのにも「その日の調子」や「その時の傾向」みたいなものがあって、翌朝には180度気が変わり、せっかく選んだ本を元に戻して朝っぱらからガサゴソと本棚の前で悪戦苦闘する…なんてことを日常茶飯事にやっている。ホントにバカバカしいけれど、これがまた愉しい。


今朝も出かける前にかなりの時間を本棚の前で過ごした。電車の中で読みたい本、久し振りに見つけて気になったので放っておけなくなった本、今日はどうしても持って歩きたい気分の本などが数冊あってなかなか選べない。出先で本を読む時間がどれだけあるのかと考えてみると、いくらもない。いくらもないと分かっているのに、気がつけば文庫本3冊を鞄に入れて出かけてゆくのだ。まったく自分でもバカバカしいと思う。


うちの子どもたちは「お出かけするよー」と声をかけると、ガチャガチャとおもちゃをひっくり返して持っていくものを選びはじめる。終わったかと思うと、パタンパタンと絵本をひっぱり出し、バサバサと選びはじめる。「おいおい、そこまで出かけるのにそんなにいらないぞ」と声をかけながら、ぼくはハッと自分の分身をそこに見つける。今のところは「パパだって、そんなに本を持ってるじゃん」とは云われないが、それも時間の問題なのかなとも思うので、できる限りは目を瞑ることにしている。


持っていったおもちゃは、たいていの場合において実際には遊ばない。絵本も乗り物酔いするのであまり読まない。それ以上に興味が外界に向いてしまうので、持ってきたことすら忘れているようだ。子どもたちと同様に、ぼくも家族と出かける時はほとんど読まない。というより読めない。運転しているときはもちろん読めないし、出先では色々と面倒があるので読んでいる時間などない。出勤時や一人でお出掛けの時も、電車に乗るとその心地好い揺れに心を奪われてしまい、うとうとしていてほとんど読めないことがある。吊り革に掴まって立っている方が、しんどくても読書は捗る。


実際には使わなかったり読まなかったりだと、おもちゃも本もただ重いだけになる。そんなことは分かっている。分かっていても持っていきたいのだ。なぜか?それは、本の重さが安心の重さに繋がるから。本が重ければ重いほどリアルに安心を感じることができる。たとえば、出先で眠りから覚めた時に突如として無人島に自分がいた場合、一冊も本がなかったら生きていかれないだろうし、一冊だけでは心許ないだろう。まったく何が起こるのか分からないこの世の中。備えあれば憂いなしってことで、いつも数冊の本を持って歩くのは至極当然のことだと云える。……んなわけないか。


とにかく、本の重さは安心の重さなのである。それと、おもちゃもね。