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ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

縁のこと。

縁というのは不思議なもので、出会うべくして出会う人であっても、その予感はほとんどない。ぼくの場合、いつだってそれは突然にやってくる。深い付き合いをしている人との出会いを振り返ってみると、会った瞬間に共鳴することもあれば、意外にも最初の印象はあまり芳しくないということもある。時を経て、機が熟して、ゆっくりと育つ縁もあるということか。縁とは、本当に異なもの味なものだと思う。


好きな人、苦手な人、居心地のよい人、間がもたない人、ホッとする人、落ち着かない人、軽い人、重たい人、どんな人との出会いであっても、たとえそれが辛い出会いであっても、その出会いから得るものは必ずある。いや、得るとか得ないとかではなく、その出会いにはなんらかの意味があるような気がする。精一杯なその時には全く気づけず、後になって振り返ってみると…ということなのだけれど。縁というのは、実はそこら辺りに落ちている石ころと同じくらい当たり前に転がっているものなのかもしれない。どれを拾うのか、足で蹴飛ばすのか、どれを持ち帰るのか、ずっと大切にできるのか、それとも捨ててしまうのか。縁の意味とは、ぼくしだい、あなたしだい。


縁に振り回される人を描いた小説というのは圧倒的に多い。人はいつの時代にも人との間で切磋琢磨し、愛しあい、憎しみあい、結ばれ、離れ、命のやり取りをしている。人にとって、縁とはスパイスのようなものなのかもしれない。縁に恵まれない人生、つまりは出会いの意味を見つけられない人生というものを考えてみると、なんとも味気ない。人はさらなる刺激を求め、他人や作り物の縁を渇望し、自分の立ち位置を確認してみたり、そこに自分を重ねてみたくなる。縁のもつロマンチックさ、不思議さ、恐ろしさというスパイスを求めて。


ぼくが縁というものをもっとも感じるタイプの小説は、宇野浩二「思ひ川/昭和26年 中央公論社」だろうか。恋愛小説なのだが、いわゆる恋愛小説ではない。そこは読んでのお楽しみなのだが、縁というものの深さ、濃さ、長さ、重さなどを感じることのできる、直球でも変化球でもない心の通い合いだけを宇野浩二らしい語り口で真摯に描いた味わい深い小説だ。難解さや読みにくさもなく、もってまわったくどい表現もない。もちろん恋愛小説特有のジレンマはあるのだけれど、「浮き沈み」を経たあたたかな救いがここにはある。長い歳月を越えてお互いを信じることのできる、お互いの人生を尊重しあえる縁の力…そんなものを感じられる小説だと思う。


いつも縁を感じていられるような、そんな自分であり続けたいと思う。

思い川・枯木のある風景・蔵の中 (講談社文芸文庫)

思い川・枯木のある風景・蔵の中 (講談社文芸文庫)