ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

まんなかに、ふるほん。

ぼくが古本にどっぷりとハマるきっかけになったのは、大好きな出久根達郎さんの影響に因るところが大きい。それについては以前にもこのブログで書いたのだけれど、それからの古本道においても出久根さんのように背中を押してくれる人(道先案内人)というのは跡を絶たない。といっても、勝手にぼくが「本好きのココロを捉えてしまうような本」を読んで背中を押された気になっているだけのことなのだけれど。


「本好きのココロを捉えてしまうような本」と一口に云ってもいろいろあるのだけれど、ぼくの場合は「本の本」に鷲掴みされてしまいやすい傾向にあるようだ。
本の本とは文字どおり本について書かれた本のこと。ぼくに限らず、本が好きな人で同じように「本の本」も好きだという人は少なくない。本の本が好きなような人は、得てして装丁、版面、図版、段間、帯、紙質、函、手触りなどにも結構こだわったりする。本文はさることながら、本そのものが好きだということだろう。読みもしない本に大枚をはたくなんてバカバカしいという人もいるだろうけれど、そこに在るだけでよいものって誰にでもあるのではないだろうか。どこかの国の王様ではないけれど、自分の周りに本たちをはべらせているだけでウハウハと幸せなキモチになれるのだ。本好きは身の回りに本とその情報(まだ見ぬ君に逢いたいという恋慕の念も含む)を絶えず置きたがる。在るだけの安心感と知的興奮、そして新たなる出逢いへの期待。本の本を読むことで、そのいずれをも手にしたかのような心もちになれる…のかもしれない。


ぼくにとっての本の本とは、もっと範囲を広めた本のことを指す。著者が好きな本や作家の魅力について「DJ心」満載に語っているものも本の本として括っている。これらの本は、書棚のもっとも見栄えのする位置にすんと座らせているくらい、ぼくにとってのお気に入りたちなのだ。
そんなお気に入りの本たちの中でも特に好きでよく読み返している本はというと、山本善行さんの「古本泣き笑い日記(青弓社)」が一番に挙げられる。荻原魚雷さん、岡崎武志さん、山下敏明さん、黒岩比佐子さん、種村季弘さん…まだまだステキで大好きな道先案内人さんたちはたくさんいるのだけれど、なぜに山本善行さんなのか。本のソムリエといわれる山本善行さんの著作を読んでいると、もう居ても立ってもいられないくらいに自分の中に棲む本の蟲がムズムズと蠢いてきてもんどり打ってしまう。振り払えたとおもいきや、ハッと気が付けば背中を強く押されて本の海へドブんと落とされ、抗う間もなく溺れていってしまうのだ。こわい、コワイ、怖い。善行さんの選ぶ本はぼくにとってどんぴしゃだ。そして書かれた文章の波長がとても心地よい。極めつけは純真無垢な古本愛。あまりの愛の深さに古本者でなくともクラクラさせられてしまうこと必至である。

古本泣き笑い日記

古本泣き笑い日記

《翌日、起きると、H子ちゃんはもう学校へ出たあとだった。テーブルを見ると、短冊が目に入った。そうだった、昨日は七夕だったんだ。読んでみると、「いいふるほんがよめますように」と子どもの字で書いてある。そして、「おかざきたけし、やまもとよしゆき」と私の名前まであった。そうか、「かえますように」ではなく「よめますように」か、いいなあ、うれしいなあ、と心動いた。もしかしたら、買うだけじゃなく、読め、という批判なのかもしれない。(古本泣き笑い日記)》


善行さんが岡崎武志さん宅に泊まった時の話。H子ちゃんとは岡崎さんの娘さんである。ぼくはこの部分を読むと、いつもおかしくて笑ってしまう。そして、なにかほっこりとあたたかいものを感じるのだ。幸せなキモチになれる一文…の連続。


だって、ここに書かれているのは、ぜんぶ真ん中に「ふるほん」のある生活なのです。