ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

曇天の日も古本散歩。

降りそうで降らなかったので、近所の古本屋まで散歩に出かけた。これまでの経験上、こういう日は掘出し物に出逢うことが多い。さて、お店は開いているだろうか。
表の均一台が見えなかったので一瞬ギクリとしたが、こんな天気なので店の中に入れてあるだけだった。わくわくしながら、さっそくゴソゴソ(でも丁寧に)均一台の本をひっくり返していく。あった、あった。予想どおり「いい本」がキラリと出てきた。
小島政二郎随筆集『場末風流』(旺文社文庫)を百円で拾う。その場でパラパラと読んでみる。いい本の匂いがして、胸がキュンとする。早く帰って読もう。


この本には、小島政二郎が生まれ育った東京の下町での懐かしい日々、代表作「眼中の人」でも登場する芥川龍之介菊池寛らとの交友、旅の思い出などが綴られている。端正なこだわりの文章で書かれた随筆の合間に、軽妙洒脱なほっこり随筆が散りばめられていてこれがとてもいい。


《玄関から次の間まで来ると、中庭の縁の鴨居のあたりから、突然「ガチャガチャ」が賑かに啼き出した。その声を聞くと、私は、地震からなんの影響も受けていないガチャガチャがうらやましくなった。同時に「よく生きていたな」と思った。懐かしい気がした。乾いた心がしっとり濡れて来た。(「ガチャガチャ」/小島政二郎随筆集『場末風流』)》


大正十二年の関東大震災の翌日、小島政二郎は避難先から訳あって自宅へ戻る。自宅付近は火が近くまで燃えて来て盛んに火の粉を被るような状況だった。「もう焼けるものと覚悟をした」とあるので、かなり切羽詰まっていたものと思われる。そんな命がけな状況の中、飼っていたガチャガチャ(バッタの仲間?)の啼く音を聞いてしっとりと心濡らす。たった二頁程度の短い文章なのだけれど、忘れがちな「何でもない日常を送ることのできる仕合せ」をあたたかく感じさせてくれる名文だ。


小島は一昨日の夜以来ガチャガチャが何も食べていないことを思い出し、台所に入って野菜入れの箱などを引っ掻き回す。ガチャガチャが飢えて、籠の中でカサカサになって死ぬところを想像したりしながら必死で餌を探し、やっとの思いで「余程枯れ色の勝った使い残りの胡瓜を一寸」見つける。


《バタリ蒲鉾なりに切った胡瓜を入れてやると、一度は向こうへ跳ね退いたが、長い後足をギク、ギクと折ったり立てたりして近寄って来た。そうして胡瓜の肌へ口を突っ込んだ。突っ込むと、複雑した口のあたりをチラチラ小さくせわしそうに動かして液を吸い始めた。世にもかわいい姿だった。》


窮地に立たされなければ気づけないことがある。窮地の中でも、その場面だけに限定されたヒントがなければ気づけないことがある。ぼくには、失いかけているがまだ失っていないものの象徴がガチャガチャであるように思える。今まだそこに仕合せは確かにあって、それを失うことは本当の喪失感を新たに生むことになる。失って初めて気づくということが人にはあるが、それは本当に恐ろしいことだ。ガチャガチャの存在は、自分の立っている真下の地面が確かに在ることを思い出させてくれる。愛おしい家族と何でもない日常、決してセットではないし当たり前でもない。


《その夜、三人久しぶりで膳に向かい合った時、突然ガチャガチャが啼き出した。「あら、ガチャガチャ。まあよく生きていたわねえ」妻と姉とが同音に云って喜ぶ顔を、私は一杯の笑顔で眺めた。》


こういう本に巡り逢えるから、古本散歩はやめられない。単に本を見つけるという仕合せだけではなく、仕合せそのものを見つけるきっかけにだってなるのだから。