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ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

キノモチヨウ。

ついこの間ラジオを聴いていたら、随筆家の山川静夫さんがこんなことを言っていた。
「余生という言葉があるが、最初から最後まで大切な自分の人生なのだから、余った人生を生きるというようなこんな言葉を遣うのはヨセイ!」ウトウトしながら聴いていたので間違っているかもしれないけれど、大筋はそんな話であったように思う。


国語辞典で「余生」を引いてみると、「人生の盛りを過ぎた後の残りの部分」とある。人生も盛りを過ぎたら、その後は残りもので余りものということになるらしい。でも、人生の盛りとは、一生のうちのどの部分のどんな状態を指すのだろう。地味な人生を送っている人は、一生が余生ということになるのだろうか。
けっきょく、人生というのは気の持ちようだと思う。キノモチヨウ。余った時間を生きていると考えたそのときから余生になるのだろうし、いつまでも盛んな時を過ごしていると感じられれば、人生の盛りはずっと続くものなのだろう。


≪「山口くん。人生というものは短いものだ。あっというまに年月が過ぎ去ってしまう。しかし、同時に、どうしてもあの電車に乗らなければならないほどに短くはないよ。……それに、第一、みっともないじゃないか」(「男性自身」傑作選 中年篇/「少年達よ、未来は」山口瞳 著/新潮社)≫

山口瞳「男性自身」傑作選 中年篇 (新潮文庫)

山口瞳「男性自身」傑作選 中年篇 (新潮文庫)

著者と先生の二人は、少し急げば電車に乗れそうなタイミングで駅に着く。しかし、先生は一向に急ぐ素振りを見せない。周りの人たちは早足で追い越していく。二人がフォームに着いたとき、ちょうど電車の扉は閉まり発車するところだった。そのときに、著者の気配や心持を察して先生の云った言葉がこれである。
著者と同じく、ぼくもこの言葉に感銘をうけた。むやみに急いだり焦ったりすることはそもそも自分の性に合わない。性に合わないことなのに、急いだり焦ったりしなくてはならないことが人生のうちにはあったりする。そういう心持になるようなことはできる限り避けて通りたいと思うのだけれど、避けてばかりでは前に進めない。まったくもって、みっともない。


ぼくはいつも余生を生きていたいと思っている。ゆっくり歩いて電車を一本見送るくらいの余裕がほしいといつも思っている。これから先の人生がずーっと余生であるとすれば、もう余生を気にせずにのんびりとゆるやかな人生をおくれるわけだし…。キノモチヨウ。