ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

生きたい。

被災された方の手記をくり返し毎日読んでいる。ウェブで見るのも、2011年3月11日に起こった「日常」から「非日常」に変わっていく様ばかりだ。
原発や震災そのものについては、少し切り離して考えるようにしている。これらが切り離された問題だからということではなく、ただ切り離して考えることを今のぼくが必要としているからだ。


なんどもなんども「震災によって日常が非日常に変わっていく瞬間の体験」について読み返していると、昨日すぐそこで起こった出来事のような気がしてくる。
助けてと叫びながら津波にのまれていったのは我が子だったような気がしてくる。
すぐ手の届くところにいたのに助けられなかったのは、ぼくの連れ合いだったような気がしてくる。
引き潮のようなものに連れ去られるとき穏やかな表情を向けてきたのは、父だったような気がしてくる。読む度に涙が止まらないまま嗚咽する。これはいったいなんなのか…。


皆一様に云う。「すべて奪われて(失って)はじめて気がついた」と。
日常と非日常。かつて当たり前だったものは、一瞬にして有難いものへと変わってしまった。それがどういうことなのか、そこにどんな意味があるのか、それを理解し納得するために、人は目に見えるチカラと目に見えないチカラについて深く考える。確かな道標もないままに、ぼくらは今も危うい境界線を行き来している。気がついて、考えぬいた先には、いったいなにが待っているのだろう。
確かなことなどなにもない。なにもないのだけれど、こんなふうに思う。


有難さを知り、生きたいと願ったその感覚こそが原点なのではないかということ。
想像もしたことのないような圧倒的で脅威的なチカラを感じ、経験したことのないような感情を持て余す。これらが言葉となったとき、ぼくらは言葉のもつ本当の意味を知る。ぼくは何度もこの言葉たちに打ちのめされ、その度に原点へとものすごいチカラで引きずり戻されている。


不確かな中から生まれた、確かさのようなものを、今、確かに感じはじめている。