ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

蟲文庫さんのこと。

ぼくは「本の本」が好きでよく読むのだけれど、とりわけ「古本の本」が好きで、出ればすぐに買ってくる。それはどんな内容の本なのかといえば、古本屋を開業するまでのエピソードやその後の苦労ばなしだったり、または三度の飯より古本が好きだという「古本病」に感染した者の話が延々と綴られている、奇特な世界の奇特な本のことである。


岡山県倉敷にある古本屋「蟲文庫(以下、蟲さん)」が、『わたしの小さな古本屋/田中美穂 著(洋泉社)』という「古本の本」を出された。開業までのエピソード、苔のはなし(?)、本がとりもつ縁、帳場からの風景など、どれもほっこりあたたかいエッセイばかりが綴られていて、読むだけで幸せなキモチになれる。
蟲さんのエッセイを読んでいると、その文章からも内容からも、のんびりと朗らかな印象を受ける。でもその根っこには揺るぎない芯がピーンと入っていて、「つよいなぁ」と感心してしまう。

「一九九三年一〇月二六日(火)晴れ。仕事休み。用事があってY(当時の勤め先)に寄ると、(オーナーの)М・Мさんから突然配属替えを言い渡される。青天のへきれき。納得がいかないので今月いっぱいでの退職を申し出る。(中略)せっかくなので古本屋をやってみようと思う。読楽館の森川さんに話を聞きに行く。当面必要なことを伺い、『街の古本屋入門』をすすめられ購入。不動産屋を何軒かまわる……」(「わたしの小さな古本屋」より)

そういえば、こんな人の本を少し前に読んだような気がするなあ…

「バイトやめた」「そうかぁ、大変そうだったもんね。お疲れさま」
これで夫婦二人とも無収入に近い状態になるが、切羽詰まった空気はなかった。むしろ少しのんびりできるねと言っていた。(「ブックカフェのある街/前野久美子 編・著/仙台文庫」)

思いこんだらまっしぐらのぼくにも、似たような経験がある。ただ、「お勤め」を辞めて「お店をもつ」という発想が当時のぼくにはなかった。仮にあったとしても、こんなふうに次の瞬間発想を切り換えて動き出すなんてことができたかどうか。

あのころから、時代はずいぶん変わりました。でも、より先へ、より前へという世のなかの風潮が性に合わないという人は、どんな時代にも変わりなくいるはずです。いや、庶民と呼ばれるわたしたちは、いつもたいていそんなところではないでしょうか。(「わたしの小さな古本屋」より)

よく人から「あなたは大変なことを楽しそうに話すね」と言われます。どうやら、辛い、儲からない、お先真っ暗といつも楽しそうに話しているらしい。よく考えたら変な奴だ。でもそんな風に笑い飛ばさないとやってこられなかったのかもしれない。(「ブックカフェのある街」)

この2冊を読み比べてみると、同じようなタイプにも見えるし、まったく違うタイプにも見える。でも、たぶん芯の部分には共通したアツイヤツが流れているに違いない。本のチカラを知っている者のもつアツイヤツ。イメージ的にはマグマというよりもドライアイスに近いかな。見た目はちっともぐつぐつなんかしていないのに、下手にさわるとヤケドするくらいにアツイ。うっかり水を差すようなことをすれば、もくもくと煙が上がってまっしぐら…。まあ、それは冗談として、お二人ともとにかく魅力的でエネルギーのある女性だとぼくは読んでいて感じた。こんな人たちが営む古本屋さんなのだから、お店だって並んでいる本だってステキすぎるに決まっている。

わたしの小さな古本屋?倉敷「蟲文庫」に流れるやさしい時間

わたしの小さな古本屋?倉敷「蟲文庫」に流れるやさしい時間

本には命が宿っていて、大事にしてあげると、大事に想っていると、不思議な「縁」をそっと運んでくれる。ぼくにもこんな体験はなんどもあるのだけれど、蟲さんのエッセイの中でもそんな「縁」についてふれられている。ブローティガン小山清木山捷平…そこは読んでのお楽しみなのだけれど、これら一篇一篇を読むと、すぐにココロの奥のほうがジンワリあたたかくなってくる。本が好きで、本当によかったなあと思える。そして、こんな古本屋さんが世の中にあってくれて、同じ時代に生きることができて、また本という縁をとおして不思議な時間さえも共有することができる…つくづくぼくは幸せだなぁと思う。
蟲さんのテーマは「意地で維持」ということらしいけれど、ぼくも自分の生活の柄を考えるとき、いつも同じようなことを思っている。プライドも野望もあんまりないけれど、意地でも維持してやろうと。


最後に、蟲さんの好きな捷平さんの、この言葉を。
『一篇の詩でも小説でも、五十年後百年後の人がひとりでも読んでくれたらうれしい。それが自分の望みである』
木山捷平が生前遺したというこの言葉は、なんだか蟲さんそのものでもあるような気がしてならない。