ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

言葉のもつ意味とチカラ。

人の目をとおして新たな発見をする。
本を読んでいると、思いもよらないような視点と洞察力にハッとさせられることが多々ある。たとえば写真家で作家の星野博美さんの本を読んでいると、一篇ごとにうちのめされてしまう。そんなところに着目して、しかもそんなふうに観察してしまうのかと、読むたびに唸ってしまう。彼女のとんでもない観察眼と洞察力は、ときにまったくもってトンデモナイ方向へつっぱしる。その暴走っぷりがまた潔くて心地よい。そして、ときにグッと胸に迫る。ふかくふかく考えさせられるのだ。

花は、なぜ自分がそこに置かれているのかを雄弁に語る。そこにこめられた意味に気づいた時、世界がまったく逆転して見えることがある。
アパートの近くに、いつも花の置かれた電信柱がある。(中略)もう三年以上、そこから花がなくなったことは一度もない。誰かに深く愛された人がそこで亡くなったのだろう。(カサブランカ/「のりたまと煙突」星野博美 著/文藝春秋

歩いていると、地面に置かれた花束を目にすることがある。新しい花束であれば、最近ここで誰かが亡くなったのだろうと想像し、特にそれ以上ふかくは考えずに通り過ぎる。ぼくは薄情者なのかもしれないけれど、それが昼間ではなく夜であれば、少し気味が悪いというか、怖いとさえ感じることがある。そんな自分のことが少し嫌だったりするが、そんなことはすぐに忘れてしまう。

のりたまと煙突

のりたまと煙突

著者はその後同じ場所(魔のT字路で事故が多い場所)に豪華な花束を見つける。
「今日は命日なのかな?」と思って通り過ぎようとするのだけれど、ふと足元に、アスファルトに吸収されずに残ったどす黒い血のしみを見つけ、あらたな犠牲者を想像する。一体ここで何人の人が命を落としたのだろう、と。
日常という物語には、はじまりも終わりもない。あらゆる生と死と想像力と言葉によって断片がつなぎあわされ、一つの物語が紡がれていく。あちらこちらに転がっている断片に気づかず、見落としたり蹴飛ばしたりして歩いていれば、日常から物語は失われていく。


著者は別の日に、今度はコーヒーショップのテラス席から花束を見つける。
華やかな通りに面した百貨店にあるコーヒーショップのテラス席。その壁際に豪華な花束をたてかけて手を合わせ、しばらく拝んでから立ち去っていく若い男女。そこには花束だけが場違いな忘れ物のように残されていた。

そこに花束が置かれていることに、ほとんどの人がたいして関心を寄せないことが不思議だった。あるいは気づきはしても、この華やかな場所と人間の死がどうしても結びつかず、「きっと落し物だ」と自分にいい聞かせて通り過ぎているのか。
(中略)店を出、買い物を済ませたあと、もう一度そのコーヒーショップの前を通った。花束はすでに消えていた。その花束の意味を知る百貨店の店員が、不吉だからと片付けたのか、意味を知らない誰かが落し物として片付けたのか。どちらにせよ、花束は数十分で片付けられた。
この場所に死を連想させるものは似合わない。そんな力学が働いたことだけは確かなようだ。

この話には残念ながら続きがあるのだと、著者は花束の一件から時を置いて、百貨店の屋上から人が飛び降りたときのことを語る。
著者は僅かなタイミングのズレが幸いし、その場面に直接遭遇することを免れるのだけれど、友人から「毛布で覆われた遺体を横目に、コーヒーショップのテラスで普段通りにコーヒーを飲む人々」のことを聞かされ、またぞろ思う。

ここでは人が死ぬことなんて許されない。
ここは夢を売る場所。快楽を売る場所。現実を見せる場所ではない。
夢を売る側と、夢を買う側の思惑が手を組み、見たくない現実から目を背けているようだった。

急に話が飛躍してしまうかもしれないけれど、ぼくは東日本大震災の報道についても「見たくない現実から目を背けている」という同じような思惑を感じた。この11ケ月間、死をリアルに感じられるような映像や表現は殆ど見かけなかった。死が数値化され繰り返し伝えられることで、逆に死そのものを想うことや、現実の痛み(悼み)から遠のいていく自分を感じた。
しかし、見たくない、見せたくない、ということは「配慮」でもあるのだと思う。生々しい現実は被災者の傷口をさらに拡げ、また新たな傷を生みだすことに繋がるのかもしれない。であれば、配慮としての隠蔽はやはり必要なのだと思う。
では、宙ぶらりんとなった「痛み(悼み)」を咀嚼し嚥下するためにはどうしたらよいのか。リアルに届くコトバ(メッセージ)が必要なのだとぼくは思う。数値化され薄められた死ではなく、どのような言葉で伝えられれば人はリアリティーを感じ、自分の中に取り入れることができるのか、そういう言葉のもつ意味やチカラについて考え目を背けずに共有していくことこそが、今のぼくたちにとって最も必要なことなのではないかという気がしてならない。


日常という物語からリアリティーが失われ、物語る言葉を見つけられなくなった時、いや、すでにそうなりつつある今こそ、言葉のもつ意味やチカラについて深く考えていかなくては取り返しのつかないことになるだろう。この先に用意されている世界が、「痛み(悼み)」を感じない(感じることができない)人間と空虚な破壊活動で成り立っている世界だったとしても、それでも目を背け続けるのだろうか。