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ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

本の殺し屋。

高円寺にある古本酒場コクテイルさんのブログを読んでいたら、こんなことが書いてあった。

≪あまり知られていないが、古本屋ほど本を捨てる職業はいない。古本の即売会が終わると、ゴミ収集車が来て、そこに古本屋は本を投げ入れる。本は折曲がり、つぶされ、押し込められ、紙くずになる。戦前の本も、ときには江戸時代に刷られた和とじの本も、ベストセラーも個人で出した句集も、古本屋はどしどし捨てる。われわれは本の殺し屋だ。この手で、本を棚に入れ、再び世に出し、生かしもするが。(「本と子と偽善者」/古本酒場コクテイル店番日記)≫

この文章を読んだとき、後頭部を東京タワーでブン殴られたような衝撃を感じた。
「われわれは本の殺し屋だ」
なんなのだろう、このインパクトの強烈さは。
そんな強烈なこの一節だけを取り上げてみて、いつもの薄っぺらい思考でこんなことを考えた。
「あまり興味のもてない、どちらかというと自分にとって価値のない不用な(と勝手に判断してしまった)本に対して、ぼく自身はどれだけ寛容でいられるだろうか」と。


あいおい文庫の蔵書を整理していると、ダブっていたり相応しくないと思われる本の持って行き場に困ることがある。書棚に本をどんどん入れながら、相応しくないと思われる本については除けてそこいらに積んでおくのだけれど、その除けた本がどこへ行くのかといえば、あいおい古本市に出品するための箱に詰められるのだ。あいおい古本市は云ってみれば「生き残るためのラストチャンスの場」であり、そんなふうに勝手なふるいにかけられて残ってしまった本は残念ながらゴミ置き場へ行くことになる(新古本屋さんの協力を得て別の本の購入に役立てることもあるけれど)。本当に申し訳ないと思う。ごめんなさい。
最初のうちはかなり心が痛んだ。「本を通して街の人が気軽に集まれる場所をつくりたい」そんな気持ちに共感してくれた人たちからたくさんの本をご寄贈いただき、ある意味においては本そのものを「救出」しているような気になっていた自分が、己の判断で死刑宣告・執行をしているようなものなのだから。なんてこった。


しかし、「慣れ」というのは怖いもので、そんなことを繰り返しているうちに「不用な本(こんな呼び方は失礼極まりないけれど)」に対する扱いがだんだんとぞんざいになってきてしまう。せどらー(古本屋で安く本を買ってきて、その本を買値より高く売る人)がケータイ片手にバサバサと本をカゴに投げ入れているあの姿に、なんだかぼく自身もどんどん近づいているような気がして自己嫌悪に陥ることがある。でもコクテイルさんのブログを読んでいるうちに、この心境の変化は「単なる趣味から仕事の一部に変わった瞬間」として受け入れてもよいものであるような気がしてきた。だってこれが仕事の一部ではなく、こういった一連のことすべてが仕事になったときには、自己嫌悪など感じる暇もないような冷徹な本の殺し屋にならざるを得ない立場に立つのだから。プロとして価値のないものや不用なものは消すしかない。仕事に感傷など不要だ。プロの殺し屋は非情でなくてはならない。キレイゴトではすまされない。それがプロなのだ…たぶん。


コクテイルさんのブログから引いた強烈で衝撃的な文章の一節には、実はもうちょっとディープな前述がある。それがまた強烈なインパクトをもっていて、この古本屋に関する一節と併せると、スカイツリーと東京タワーで左右から同時に挟み撃ちでブン殴られたような衝撃を受ける。その衝撃について一回はグダグダと細かく書いてみたのだけれど、とんでもなく長くなってしまったので(とんでもなく時間もかけたけど)全部を載せるのはやめることにした。
その衝撃を受けて考えたグダグダについてを要約すると、子育てというのはキレイゴトだけではやっていけないし、乱暴ないい方をすれば「子供を生かすこと、物を食わせ、寝かせる、これに尽きる」といいきってしまうコクテイルさんに、根っこのところでとても共感したということ。子どもの命を親が預かり、一人前になるまで護りとおし大切に育てるということに、正解や正論なんてないのだということ。ああだこうだと子育て論は山ほどあるけれど、「生きる。生かし、生かされる。」その一点こそがすべての原点なのだとぼくは思う。そこさえぶれなければ、たとえ遠回りであったとしても間違ってはいないのだと思う。いずれにしたってキレイゴトで出来るような甘っちょろいものではないのだ。


語れば語るほど話がどんどんキレイゴトっぽくなってくるので、ここらへんでもうやめておこうかな。


古本酒場コクテイル 店番日記:本と子と偽善者 - livedoor Blog(ブログ)