ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

庄野潤三という仕合わせ。

仕合わせは人に見せびらかすものではない。だけど人と共有することで増幅する仕合わせというのもあったりする。そこのところがとっても難しいのだけれど、他人と共有しようと思った仕合わせが逆に不快感を与えてしまうこともあって、空気を読み違えると時に大きな反発を買う。相手の状況や自分との関係性などを慮ることも大切なのだけれど、伝え方や表現方法を考えるというのも重要なようだ。はたしてどんなふうに伝えれば他人と仕合わせを共有することができるのだろうか。


仕合わせなキモチになりたいとき、ぼくは庄野潤三の「ザボンの花/1956年(近代生活社)」をよく読む。これまでの人生でもう何十回読んだことか分らない。きっとこれからの人生でも何十回と読み返すことになるだろう。それくらいぼくにとって大切で、大好きな小説だ。ここには、ごくありふれた家庭のなんでもない生活がやさしくあたたかに描かれている。たんたんとした雰囲気なのに、推敲を重ねた印象をもたせない、精緻を極めた無駄のない文章で、とにかく読ませる。

ザボンの花 (大人の本棚)

ザボンの花 (大人の本棚)

この本を読むと、ごくありふれた家庭が本当はありふれてなどいないこと、なんでもないような生活がどれだけ有難いことなのか、それが身につまされるようによく分る。ここに出てくる仕合わせの象徴は子どもたち。子どもが出てくるような小説というのは、とかく子どもの行動や言動、心情が大きなカギを握ることが多く、仕掛けられた「無自覚さ」が往々にして笑いや涙を誘う。しかし、ザボンの花にはそういう仕掛けっぽさがない。子どもたちがまるでそこいらを走り回っているかのように生き生きとして、自発的に呼吸をし、勝手にしゃべっているのだ。自然体な子どもたちの一挙手一投足が、ぼくの心を仕合わせ感で満たす。嫌味のない自然な描写が心を打つ。ぼくにとって仕合わせなキモチになれる唯一無二な小説だ。同じようにこの小説を読むと仕合わせなキモチになれるという人をたくさん知っている。と同時に、この小説を読むと疲れる、厭き厭きする、どうしても好きになれない、という人のことも知っている。


うちには三人の子どもがいる。上の二人は年子なので、毎日よくケンカをする。ばったんばったん大騒ぎするので、ボロいわが家はグラグラ揺れる。ぼくの大事な本を踏み台にし、カバーを外して投げたりする。帯を切り裂き、頁をむしり、スピンを持って振り回す。庭に出ては庭石をひっくり返し、だんごむしを捕まえては空き瓶に貯める。せっかく植えたハーブを根こそぎ引っこ抜き、咲いた花を摘んではジュース(ただの色水)を作る。そんな生活もようやく落ち着いてきたかと思いきや、今度は末っ子に知恵がついてきて同じことをくり返す…。大変だねと言われれば、本当に大変なんだとぼくは答える。厭にならないかと訊かれれば、まったく厭になるよと答える。そして、仕合わせですかと訊かれれば、ものすごく仕合わせですとぼくは答える。


仕合わせというのは、いつもそこいらへんにあるもので、自然にそうっと感じるものなのだと思う。この仕合わせを誰に伝えようかと考えるとき、それを伝えたい相手はけっこう限られている。一番に伝えたい相手はもちろん一人しかいない。伝えたい事柄そのものが共有できなかったとしても、仕合わせなキモチを共有してくれる相手がぼくにはいる。たぶん、それだけで十分なのだと思う。他人と共有したい、他人とつながっていたい、他人といつも分かち合いたいというのは、どこかおかしい。何をそんなに欲しているのだろう。何をそんなに恐れているのだろう。何がそれほど渇かせるのか…


仕合わせは、待っていてもやってこないけれど、いつもすぐそばにある。そんなに焦ってつながろうとしなくても、もうすでにどこかでつながっている。無理につながらなくったっていい。自然のままでいい。移りゆく自然のなかに、その答えはあるのだと、庄野潤三の小説は教えてくれている。