ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

本と愚か者。

無性に本が読みたくて、読みたくて、読みたくて、むむむむむ…という時がちょいちょいある。むやみやたらに読みたいからといって、むやみやたらになんでもいいというわけでもなく、溢れかえる本の前であれでもないこれでもないとチマナコになって悪戦苦闘したりする。汗が吹きだし、血圧が上がり、徐々に動悸は激しさを増す。なかなかコレという本を選ぶことができないままに、そのうちだんだんともうどうでもいいような心もちになってくる。どれも読みたいと思って買った本ばかりなのに、あれもこれもと目移りしてしまい、ちっとも選ぶことができない。本末転倒というかなんというか、はた目からすると愚かしい話なのだろうけれど、ぼくはそんな自分の愚かさにうっとりとしてしまうことがある。

≪自分の利巧さに照れている人があるように、私は自分の愚かさにうっとりとするときがある。(『耳たぶに吹く風』天野忠 著/1994年10月 編集工房ノア)≫

この言葉をはじめて目にしたときからスコンと心に落ちていて、ぼくの好きな言葉としていつも胸の奥のほうに在り続けている。とはいえ、こんなところで天野さんの言葉を引き合いに出すなどおこがましい限りなのだけれど…。

自分の愚かさにうっとりできるようなときというのは、愚直なまでに好きな生き方(過ごし方)ができているときに多い気がする。うまくいえないのだけれど、それが愚かしいことだと知りつつも真っ直ぐに愛で育めるようなマイウェイをもち、かといって人の目などどうでもよいということではなく、他人さまに対して少しはにかんで見せるくらいのゆとりあっての“うっとり”なのかもしれない。とかなんとか、こんなふうに書くと少し偉そうになってしまうのだけれど、単に利巧に立ち回って何かをすり減らして生きていくよりも(本当に利巧な人は何もすり減らさずにうまくやるのだろうけれど)、己の愚かしさにうっとりとしながら、ひねもすのたりと生きていくほうが楽だというだけのこと。まあ、要するに照れるほど利巧でもない愚か者(ぼく)のたわごとなのである。