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ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

古本いじり。

どうにも体調が戻りきらず、すっきりとした生活ができない。いちど出始めると止まらなくなる咳のために、ひどく身体が疲れている。そんなだから、酒もあまりおいしくない。少し控えているのでちょうどいいといえばちょうどいいのだけれど、控えめで貴重なその一杯がおいしくないのでは大変損をした気になる。だったら呑まなければよさそうなものだけれど、それはなかなかできない。自分でも馬鹿げているとはおもう。


ここのところ度を過ごして酩酊することがないので、読書の量が増えてきた。仲間と外で呑んだ帰りにも本が読めるし、うちで晩酌をしたあとにも本が読める。その時間帯がいちばん本を読むのに適した時間であるため、一週間に4冊くらい余計に読めるようになった。そんなふうなわけで読める量がだいぶん増えてきたので、ここのところ積読の山を少しずつ崩しにかかっている。久しぶりに見る本や、たしかに自分で買ったはずなのに見覚えのない本たちとあらためて出逢い、再会の握手をしたりしながら今読みたいのかどうかで選り分け、新たに積み直し、読みたい本の小さな山を机の端っこに設置する。途端に咳をすることも忘れて、すっきりとかなり気分がよくなった。


「さあ、どれを読もうかな」と机の端の小さな山を眺めるのだけれど、よそ見して目に入った「随筆 筆一本/十返肇 著(昭和31年 鱒書房)」が気になって読みはじめてしまう。これは荻原魚雷さんに影響されて買った本なのだけれど、みごと自分のツボにもぴしゃりとハマり、今ではぼくの愛読書となっている。しばらくパラパラと読み返してから、「新書サイズの本って読みやすくていいな」などと急にそちらが気になりだす。何冊かお気に入りの新書サイズ本を取り出して、「ぼくの人生讀本/尾崎士郎 著(昭和31年 池田書店)」などをまたパラパラと読み返す。そのうち、どのくらいこのサイズの本があるのか気になりだし、あっちこっちから引っぱり出しては並べてみたりする(並べてみたら、おもったより「詩の森文庫」を持っていたことに驚く。このシリーズはいい本が多い)。その中から再読したいものを数冊選り分け、さっきの小さな本の山の上に載せておく。小さかった山は、いつのまにか今にも崩れそうなくらいに大きくなっていく。

ようやく落ち着きを取り戻し、「さて、どれを読もうかな」とまた机の端の小さな山を眺めるのだけれど、こんどは通勤鞄の中に入っている今日読み終えた本を明日持っていく本と交換していなかったことに気づき、1階に下りたり書斎のある2階へ上がったりとしばらくウロウロする。ううう、明日持っていく本がなかなか決まらない。優柔不断さと集中力のなさで、いつだってこんな具合だ。まったく自分の愚かさにうっとりしてしまう。たぶん、こんなことをやっている時間を有効に活用すれば、さらに1冊くらい余計に読めるとおもう。だけど、こればっかりはどうしようもない。心から本を好きになると、本を読む時間と同じくらいに本をいじっている時間が愛おしくて仕方なくなってくるのだから。買ってきた古本にパラフィンをかけたり、本の並べ方を変えたり、積み直したり、なでたりさすったり嗅いだりする時間が愛おしい。


なにかを一心不乱に好きになったり、一つのことに夢中になって没頭することは、決して悪いことじゃない。どうせなら究極のオタク、その道のバカ、になりたいとさえおもう。人生の達人とはそういうものなのだろうとおもっている。ただ、ぼくの場合、これが人生のなんの役に立つのか、いまだにまったく見えてこないのだけれど…。