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ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

ブコウスキーのこと。

はなったれだった頃、よくブコウスキーの小説を貪り読んでいた。
チャールズ・ブコウスキー。酔っぱらって、「くそったれ!」と悪態をつき、詩や小説を書いては、ファックする。読んでいると、ともかくバカバカしくて淋しくて少し苦い、なんともいえないへんなキモチになってくる。なんなんだろう、これは。彼の書いたものに対して誰かが知ったふうな口をきくなんてことは、これまでも、ずっとこの先も、たぶんできないのだろうとぼくはおもう。そういうすごさがブコウスキーにはある。


ブコウスキーの書いたものはとても軽くて読みやすい。かといって娯楽小説ではない。じゃあ文学なのかというと、それも違うような気がする。彼の書いたものがどういうジャンルに属するのか今もまだよく分らないのだけれど、そういう「誰にも(どこにも)括られないカッコよさ」みたいなものに、二十代前半のぼくは強く魅かれた。まるで自分の臓物を次々に引きずり出しては他人に投げつける、みたいな感じがたまらなくかっこよくおもえたのを憶えている。

くそったれ!少年時代 (河出文庫)

くそったれ!少年時代 (河出文庫)

……なんだって急にブコウスキーのことなんて思い出したんだっけ。
そうそう、縁というのは不思議なもので、それは決して見えないのだけれど、気づかずともどこかで繋がっていればきっとその気配を感じることができる。または運がよければ突然カチリと繋がったりする。たかだか三十数年間の人生のうちにそういうことが何度かあったのだけれど、少し前にもそんなようなことがあって、ふとブコウスキーのことを思い出したのだ。


十年以上も会っていなかった友人を、きっかけから刹那に思い起そうとするあいだ、なぜか友人よりも先にその周辺のことがまず浮かんできた。高速で回転する走馬灯のように、ひゅんひゅんと音をたてて記憶がリピートする。中でもとりわけブコウスキーの存在は大きかった、ということだろうか。
あの頃のぼくは、ヤクザ映画を観終えたあとに決まって肩で風を切って歩くような青タンチンだった。そんな真っすぐで純朴で世間知らずなぼくが、ブコウスキーを読んだあとでどうなってしまうかなんて火を見るよりも明らかなこと。ご想像に違わず、安物のポートワインを片手にふらふらと無頼を気取って悪態をついていた。そんなろくでもなかったあの頃の風景の中で、やわらかい友人の顔と共にブコウスキーの厳つい顔がぼくに微笑みかけてくる。穴があったら入りたいキモチと懐かしさが同居する小さな隙間で、ぼくはどう応えたらよいものかと考える。


きっとまた、昨日の続きのように話ができるだろう。安物のポートワインがなくても。