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ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

散木としての生き方。

何日か前にラジオを聴いていたら、作家で妖怪研究者の荒俣宏さんがとても興味深いはなしをしていた。うろ覚えだけれど、たしか荘子と散木のはなしだったはず。
ちなみに、この「散木」というのは、材木としては役に立たない木のこと。曲がっていたり、節が多かったり、大きさが安定していなかったりして材にならない木。または、ちっとも役に立たない人のたとえとしても用いられたりする。
荘子はこの役立たずの散木について、「たしかに材木としては役に立たないかもしれないけれど、個性豊かな珍木として愛でることはできる。ありのままの姿を愛で愉しむことができない人には、単に役立たずな木に見えてしまうのだろうけれど…」 みたいなことを言ったらしい。むむむ、この荘子という人、ひさしぶりに男惚れしちゃうような人物なのでは?


荘子は中国の思想家。その出自についてはハッキリしたことが分かっていないらしい。ぼくも名前くらいしか知らなかったので少し調べてみたら、彼は権力におもねずどこまでも自由でありたいと考え、徹頭徹尾俗世間を離れ無為の世界に遊ぶ姿勢の人…やはりぼく好みの人物であることが分かった。


……荒俣さんは、民俗学者梅棹忠夫さんから聞いたという、荘子のこの言葉を引き合いにしながら「散木としての生き方」について奨励している。

《すぐ役立つものはすぐ役立たなくなります。情報も、流行も、成功法則も、人々が気づいた瞬間に古くなってしまう現代において、もはや二番煎じもなければ、柳の下にどじょうもいません。こんな時代に人と違いを作り出すためには、じつは、徹底的に「すぐに役に立たないもの」を掘り下げる、これしかありません。『0点主義/荒俣宏 著(2012年 講談社)』》

これを読むと、荒俣さんがいかに散木や珍木を愛する人かということがよく分かる。ぼくも同じように散木を愛するものとして、荒俣さんの話は自然と胸の真ん中に沁みてくる。
栽培林で育てられた商品用の材木は、確かにすぐ使うことができるのだけれど、裏を返せば使われるためにすぐに切り倒されてしまうということでもある。それに対して散木は、大自然の脅威の中に永く晒されているため風や病気に対する耐性を持っているし、巨樹・古木・珍木という新しい価値を生み出すことができる。しかも超個性的に。そう、超個性。この「超個性」をもつ人を、仮に超個性者と呼ぶ。この超個性者を別の呼び方に換えると、「オタク」だったり「研究者」だったり「もの書き」だったりする。いずれの超個性者も、誰かの二番煎じや柳の下のどじょうでは食っていかれないだろう。


いつもおもうのだけれど、この個性というやつは中途半端にあるのだったら逆にいらない。必要なのは超個性であり、テキトーに個性を主張するとかえって生きづらくなる。大自然の脅威に立ち向かうだけの意志(チカラ)がなければ、散木も巨樹・古木・珍木となる前に倒木となってしまう。だったら最初から栽培林で育てられた商品用の材木として使われるほうがずっと楽チンでいいのではないだろうか。荒俣さんのいうように、こんな時代に人との違いを大切にして歩んでいきたいのであれば、徹底的に「すぐに役に立たないもの(それが自分にとって大切なこと好きなことであることが前提)」を掘り下げるための超個性を磨く意志、が重要になるのだとおもう。

0点主義 新しい知的生産の技術57

0点主義 新しい知的生産の技術57

自分にとって大切なこと好きなことを見つけ、それを掘り下げていく方法として、荒俣さんは「あきらめること、ヤケクソになること」が大切だという。こうなりたい、ああなりたい、そういうことはサッサとあきらめてしまう。あきらめちゃえば肩の力がぬけて楽になる。あきらめていればコワイものなんてないし、どんなことにもヤケクソになってぶっつかれる。ともかくぶっつかってみなければ何事も分からない。来たバスには何も考えず乗ってみることだ。持っているものが多すぎる現代人に、まずはそこから始めてみてはどうかと優しく問いかける。


散木でありたい。荘子のように、ありのままの姿を愛で、権力におもねずどこまでも自由で力まずに生きていきたいとおもう。

過ぎ去ったことは、くよくよと悩んだりしないこと。先のことをあれこれ考えて、取り越し苦労をしないこと。事が来ればそれに応じて、最善を尽くして臨むこと。その結果を淡々と受け止め、心に留めないこと。(荘子