ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

お茶わん一パイのメシ。

永島慎二の「フーテン(1972年 青林堂)」というまんがを読んでいたら、伍一という登場人物(走っている車から飛び降り、対向車に轢かれて死んでしまう)の書いた落書きにグッときた。

お茶わん一パイのメシ
お茶わん一パイのメシを
おれは食えなかったことがない
どこかで
お茶わん一パイのメシを食えなかった奴がいる……
おれが食ったぶんだけだ
だからいつも
おれはひもじいのだ

まんがが描けなくなったまんが家、長暇貧治と様々な葛藤を抱えて生きるフーテン生活者たちとの交流を描いた私小説的な作品。人が生きていくうえで避けられない様々な葛藤が、16の物語として語られている。いちいち胸のド真ん中に沁みてくるその言葉と絵に、読んでいる時も読み終わってからもずーんと打ちのめされてしまう。


≪フーテンと名のる若者たちを知るにいたり、子どものころから持ちつづけていた児童まんがに対する夢とか希望とか好きだといった感情などが……その奴等(さまよえる魂)の前で非情なもろさで音もたてずにくずれていった。それから彼はまんががかけなくなってしまった≫この本の中で著者がそのように語る場面があり、とても考えさせられた。夢とか希望ってなんだろう。子どもの頃、なにものかになりたいと願ったのはどんな理由からだったろうか。なりたかったものになれないと気づいたのはいつだったろう。いや、あきらめたのはいつだったろう。なりたかったものになれたにもかかわらず、それが途中でつづけられなくなるというのはどういうことなのだろうか…


一つには、こういうことがあるのかもしれない。
「メシ」と「カネ」というのはぜんぜん違うものだけれど、毎日をなんとかこうして生きていると、そのうちメシとカネは同じようなものであることに気づく。気づいて、戸惑って、周囲を見渡し、深く考え、自分の立ち位置をおもい、明日を考える。伍一の落書きの中には、そういうことの全てが含まれている。彼がなぜ走っている車から飛び降りるようなバカな真似をしたのか、なぜ死ななければならなかったのか、その理由がこの落書きの中に全てギュッと詰まっているようにおもう。
何度かこの部分を読み返していると、伍一の葛藤が苦しみが哀しみが押し寄せてきて泪が溢れてしまう。この哀しみはまた別の哀しみを呼び、その哀しみを軸としたまた別の哀しみに気づかされる。哀しみは連鎖している。この物語のラストは後の物語にもつながっていて、それはつまり人生のあちらこちらに落ちている悲哀の多くはたいていメシとカネに起因していて、人はそれを肯定したり否定したりしているようで、実はただリアルという波に運ばれて転がっているだけにすぎない、そんなふうに聴こえる。


まんがが描けないというのは、弱さなのか、抵抗なのか、限界なのか。どれでもないのかもしれないし、すべてなのかもしれない。ぼくの中にも、誰の中にも、たぶん「描けなくなるきっかけ」というものが潜んでいるのだとおもう。それでもこうして描きつづけていられるのは、悩みながらも揺れながらもお茶わん一パイのメシを食いつづけたいからなのではないだろうか。
フーテンたちも、最後には帰っていく。気づいたものから帰っていく。それぞれが、それぞれのなにかに気づいて、帰っていくのだ。

フーテン(全) (ちくま文庫)

フーテン(全) (ちくま文庫)