ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

東峰夫さんのこと。

本が好きだ。本が好きだという人も好きだし、その人の言葉も同じように好きだ。

≪よい本はじっくりと読む。すると思考は刺激をうけて誘発される。読んでは書き、書いては読む。それがよい本なのである。一週間、二週間と時間をかけて、読むこともする。
読むと、もの思いに誘いこむ本もよい本だ。途中で、読むのをやめて、想念にふける。息をひそめてもの思いし、それからまた、おもむろに読むのである。そしていう。
「この本はいいよ。いいのにめぐり合った。うん、とてもいい」(「本」東峰夫 著/『貧の達人』2004年7月 たま出版)≫

この作家が「オキナワの少年」で芥川賞を受賞してからもう40年以上も経っているのだけれど、その間に出された本はたったの5冊しかない。その理由については、「『芥川賞作家』上原隆 著/友がみな我よりえらく見える日は(平成11年 幻冬舎アウトロー文庫)」を読めばだいたいわかる。トルストイを読みすぎたといって高校を中退し、芥川賞を受賞したにもかかわらず徹底した寡作っぷりをとおす(とおさざるをえない)東峰夫という人は、本が大好きな生きベタの文学青年なんだとおもう。永遠の文学青年。ぼくはこういう人にトテツモナク惹かれる。


ぜんぶで5冊しかないので、あっという間にすべての単行本を通読した。最初に出されたものから順に読み進めていったら、そのうちだんだん眩暈がしてきた。クラクラする。ある時から精神世界に生きることを選んだこの著者の書く世界観は、凡人のぼくなど到底理解の及ばないところにあって、読んでいるうちに時おりどうにかなりそうになってくる。でも通読していておもうのだけれど、こんなふうに精神世界に生きることを選んだのは必然であり、それはある日とつぜん急にそうなったわけではないのだろうなということ。たしかに、環境の与える影響というのは大きい。妻に愛人ができたり、故郷を離れたり、定職を失ったり、コンビニのゴミを漁ったり、編集者の理解を得られなかったり、妥協して書くことができなかったり、宇宙人や霊的な存在を強く感じはじめたり、そういうことのすべてが著者を作ったり壊したりしていることは間違いないのだけれど、それはもともと著者の中にあったものであり、必然として現れたものなのだとおもう。もしも、もしもなんてばからしいけれど、もしも著者がトルストイや本を読むことと無縁の環境にあったならば、きっともっともっと違う人生があったろうとおもう。精神世界とは別のところで生きる著者というのもたいへん興味ぶかい。

友がみな我よりえらく見える日は (幻冬舎アウトロー文庫)

友がみな我よりえらく見える日は (幻冬舎アウトロー文庫)

東さんはいつだって逃げてはいない。むしろ立ち向かいながら世俗に背を向けて生きている。いや、著者が世俗に背を向けているのではなく、世俗がある部分において著者に背を向けているということになるのだろうか。いずれにしても、生活保護を受けて世俗という囲いの中で護られ支えられて生きている、ということは間違いない。著者は「自分で歩く自分の道は自分独自のもので、ひとりで歩くしかない」というが、お茶わん一パイのメシを食わなくてはもうすでに歩きつづけることだってままならないわけだし、そもそもどこからどこまでを「ひとり」と割り切って(知らんぷりして)生きていくことが著者のいう「ひとり」にあたるのだろう、と迷路に堕ちる。ひとりってなんなのなのだろう…ワカラナイ。


精神世界や真理みたいなことがクダクダと書かれているものは苦手なのだけれど、本が大好きな生きベタの文学青年という点で、この人の書くものではなく「書いているこの人」のことをもっと知りたくて繰り返し読んでいる。もう70歳をこえる沖縄の文学オジー、東峰夫さん。究極のオタクだとおもう。あと10年、20年と、できればいつまでも書きつづけてほしい。どこか、この人の本をだしてくれるところはないのかなあ。ディープな東峰夫ワールドにもっともっと溺れてみたい。

貧の達人

貧の達人