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ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

せんせい流。

ここのところ気持ちがくさくさしていたので、百鬼園せんせいの随筆をつづけざまに数冊読んだ。こういうときは酒よりもなによりも、せんせいの随筆を読むに限る。

執達吏と一緒にやつて来た債権者の金貸しが、あなたは独逸語の先生だから、独逸の本とか字引などは商売道具であるかも知れないが、文学の本は御商売に関係ないでせうと云って、差押さへた事もある。また、本棚、本箱はちつとも商売に関係のない、単なる家具に過ぎないので、いつでも遠慮なく封印の紙を貼りつけた。(「書物の差押」内田百間 著/『鬼苑横談 』1982年 旺文社)≫

せんせいは言わずと知れた借金王だけれど、ちっとも困っているようにはみえない。いや、実際には困っているからお金を借りに行くのだろうけれど、借りたお金で次々に鳥を飼ったり、シャムパンを呑んだり、ぜいたくなものを食べたりしているのだから、やっぱりそれほど困ってはいないようにおもえる。たぶん、せんせいは“困らない人”なのだとおもう。こういう困らない人というのは大したもので、だいじな書物を差押えられ、「考へ込むと惜しくて堪らない」と凹んでいるのかとおもえば、「机に坐って座辺を見廻しても、一冊も本が置いてないのは、せいせいした気持だ」などと云ってのけてしまう。どんな状況にあっても、単に前向きに捉えること(ポジティブシンキング)ができるというのではなく、根っからの困らない人なのだとおもう。たとえアワテフタメクような状況になったとしても、どうせいつかはなんとかなるだろうとおもって解決してしまう(したことにしてしまう)。その解決した先の未来が、かつて想像していたような未来ではなかったとしても、生きてさえいれば必ず未来はやってくる。約束された未来、輝かしくない未来、挫折、あきらめ、いろんな考え方があるだろうけれど、それが迎えるべくして迎えるホンモノの未来なのだ。もちろん、なにかを変えるために必死になって努力するということだってその過程にあっていい。どんな状況にあっても、それを当然のこととして受け入れ、めいっぱい感謝しながらやがてやってくる未来を大風呂敷で迎えること、それが“せんせい流”のような気がする。まあ、借りたお金を湯水のように使って返さないというのもどうかとおもうが…


ぼく自身、計画性とか甲斐性といった類のものをほとんど持ち合わせていない。行き当たりばったりの人生だと罵倒されれば、黙ってうなだれるしかない。これまでにも多くの失敗をくり返しながらなんとか生きてきたのだけれど、不思議と振り返ってみて後悔するようなことはなに一つなかった。こういうことを書くとなにかの教えみたいで厭なのだけれど、ぼくは本当にすべての過去に感謝して今を生きている。と同時に、人に迷惑をかけて深く反省したことも多々あったりするのだけれど…。


いい加減に生きているつもりはないけれど、いつもぼくにとって一番よい加減では生きている。そもそもそれがいけないのかもしれないけれど、よい加減のバランスを崩してしまうと、ぼく自身がコワレてしまうような気もする。なので出来る限りよい加減のままでいたい。“せんせい流”とまではいかないまでも、あるがままのいまを受け入れて、降りかかるすべてのことにめいっぱい感謝しながら、やってくる未来を迎えたいとおもっている。