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ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

でんでんむしのかなしみ。

ぼくは文学系の朗読CD(むかしはソノシートやカセットテープで聴いていたっけ)を聴くのが大好きで、うんと小さい頃からよく聴いている。昼間に聴くということはあまりなくて、たいていは深夜に枕元でかけたまま眠ってしまうことが多い。優しくゆったりと眠りに誘われるその感じがたまらなく好きで、ほぼ毎晩そんな時間を楽しんでいる。


近代名作から童話まで、出ているものはほとんど聴いているのだけれど、ぼくのお気に入りはダントツで宮沢賢治新美南吉のふたりのもの。夜のすこしの時間にちょうどよくってやさしくて、ずうんと重くてもあとからじんわりあたたかくなってくる。このふたりの作品の中でぼくが好んで聴いているのは「どんぐりと山猫」「注文の多い料理店」「なめとこ山の熊」「オツベルと象」「セロ弾きのゴーシュ」「手袋を買いに」「おじいさんのランプ」「花のき村と盗人たち」「でんでんむしのかなしみ」など。朗読者の息遣いやアクセントなどを憶えてしまうくらいに何度も聴き、聴いて覚えた物語を手にとって目でなぞり、アタマの中で文章と言葉と音を一つに合わせて目をつむる。そんなふうな作業を毎夜くり返していても、不思議とまったく飽きることはない。


新美南吉の「でんでんむしのかなしみ」は、大人になってからはじめて朗読CDで聴いたのだけれど、聴いてすぐに好きになってしまった。そもそも“かなしみ”という言葉がいい。かなしみという言葉は、そこはかとなくかなしいのだけれど、いやな感じがない。かなしみは、“かなしみ”であって“悲しみ”ではいけない。かなしみをずうっとみていると、ぼくの中にあるかなしみもぼうっと浮かんでくるような気がしてくる。かなしみというのは、そういうとってもフシギな言葉だとおもう。これはそんな“かなしみ”が、ある日じぶんのせなかの殻に一杯つまっていると気づいたでんでんむしの物語なのだけれど、それはつまりぼくたちみんなの物語でもある。

でんでんむしのかなしみ

でんでんむしのかなしみ

自分のせなかだけにかなしみがつまっているとおもったでんでんむしは、ともだちのでんでんむしにそのことを話しにいく。ところが、話しに行った先のでんでんむしは「あなたばかりではありません。わたしのせなかにも、かなしみはいっぱいです。」と答える。別のともだちも、また別のともだちからも、やはり同じ答えが返ってくる。そして、でんでんむしはとうとう気づく。「かなしみは、だれでももっているのだ。わたしばかりではないのだ。わたしは、わたしのかなしみを、こらえていかなきゃならない。」ということに。


ぼくの持っている「でんでんむしのかなしみ」は、岸田今日子さんが朗読をしている。実のところ深夜に岸田さんの声でこの物語を聴くと、そうとうこわい。一緒に聴いていた子どもたちが「こわいね」と云って布団をかぶるくらいにこわい。ところが今では、岸田さん以外のひとがこの物語の朗読をするなんて考えられないくらい、あまりにしっくりとぼくの中に納まっている。こわいどころか、でんでんむしのかなしみが雪崩のように伝わってきて、そのやり場のないかなしみにオロオロしてしまう。オロオロしながら、眠る間際にいつも決まってこうおもう。
ぼくは、ぼくのかなしみを、こらえていかなきゃならない、と。