切断力。
仕事にしても遊びにしても、グループで一つことをするというのはムズカシイ。みんなで同じ一つの方向にむかってすすんでいるつもりでも、目指すカタチやそれぞれのオモワクが違っていたりすると、グループは惰性的で緩慢な流れになるか、歯車のズレた険悪な空気が流れることとなる。ここ1年くらいそんなことで少し悩んでいたのだけれど、演出家で編集者の津野海太郎さんのエッセイを読んでいたら、キモチがだいぶん整理できてきた。
《調整力だけがあって切断力を欠くグループは私にはあまり面白くない。ところが困ったことに私には惰性的に流れるグループの時間をスパッと断ち切ってしまう力がない。グループの底のほうに芽生えかけた矛盾や対立を、すばやく、巧妙にとりつくろうことはできても、その事実をヒステリックにではなく、ふだんどおりの口調で、だがニベもなく表面にひっぱりだしてくる能力や度胸に欠けるのだ。(『ニベもない』津野海太郎 著/「歩くひとりもの」1998年 ちくま文庫)》
まったく同感。ぼくも、グループの底のほうに芽生えかけた矛盾や対立をとりつくろって調整することはできるのだけれど、その事実をニベもなく表面にひっぱりだしてくる能力や度胸には欠けている。それでもどうしても自分がやらざるを得ないときというのもあって、そんなときにはカキ氷マシーンに固定された氷のように、くるくると心を薄くすり減らしながら小さくなってしまう。
惰性的に流れるグループの時間をニベもなく断ち切ることで、それまでに費やした時間や労力が水の泡となってしまうことがある。ニベもないだけに、このことでひどく傷ついてしまうという人もなかにはいる。しかし、それをおそれていては惰性的な流れや歯車のズレをスパッと断ち切ることはできない。それが本当に切断されるべき流れであったとするならば、気づかずただわがままに傷ついてむくれるというのも、それはそれでニベもない。
切断力のあるひとがニベもなく断ち切ったあと、それでもまだまとまって進むことのできるグループというのが、とても成熟したグループ、ということになるだろうか。
ひとりが好きだといっても、ひとりでは生きていかれない。そういう生き方もあるのだということは分かっているけれど、人とのつながりを通じてよろこびをみつけ、そこからたくさんのことを学びたいとおもっているいまは、いくつかの小さなグループのなかで生きていくことを望んでいる。グループをつくったり、グループに加わったり、これから先どんな出合いがあるのか分からないけれど、それがぼくの生き方に何らかのカタチで大きな影響を与え続けることだけは間違いない。果たしてそれがよい影響となるかどうか、それは切断力のある人物と出会えるかどうかによるところが大きい。出会えたときに、ニベもなく断られないよう、しっかりと自分を磨いておかなくては。
- 作者: 津野海太郎
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1998/03
- メディア: 文庫
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