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ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

吉行淳之介と喉仏。

仕事柄、ひとの死に目、つまりは生と死の境目に会うことが多い。
ベッドに横たわる老人の傍らに立ち、目を瞑ったまま不規則な呼吸をくり返すその姿を、ただ見つめる。微かにうごく喉仏と、ほんの僅かに上下する布団を、ただ見つめる。

《文字どおり骨と皮だけになってベッドに仰臥している高見順氏の喉仏を、私は見詰めていた。聴診器の一種とおもえるまるく平べったいクローム・メッキの金属板を、医師は高見さんのはだけた胸に当てがっている。幾人かの男女が、ベッドを取り囲むようにして立っていた。私の見詰めている咽喉の部分は、ふしぎにそれほど骨が目立たない。手術の痕もない。呼吸はひどく間遠くなっていて、あるいは停止したのではないかとおもうこともあったが、そういうときのその喉仏だけは生きている気配を示して、きわめて微かに上下に動いていた。計器の指針が停止する寸前のような、微かな動きであるが、その喉仏を見ていれば、まだ生命がつづいていることが分かった。(『高見順氏と私』吉行淳之介 著/「懐かしい人たち」1994年 講談社)》

付き合いのあった作家や文学仲間との思い出が集められたこの本「懐かしい人たち」は、淳之介氏の滋味ぶかい著書の中でも一等ぼくのお気に入りで、それとなく手にとってはよく読み返している。いくつかの随筆集から抜き出された追悼文や故人とのお付き合いに限定して編まれたこの交遊録、神経の細かい淳之介氏の交遊のほどが(相手の心もちを推し量りすぎて、もしくは慮りすぎて、もう一歩のところで溝をつくってしまうことも。そういうところにふかく共感してしまう)見えてきておもしろい。読むとほっこりするような話や、名だたる作家たちの素顔が垣間見えるエピソードというのも魅力なのだけれど、淳之介氏の深遠な視点によって都度足止めをくらい、自分の内面にスポットを当てざるを得ない体験ができるというのも大きな魅力だ。


上に引いたのは、作家の高見順が亡くなって二ヶ月後に書かれた追悼文なのだけれど、冒頭のこの一節を読んだ瞬間にぼくはカチリと固まった。喉仏を見つめるという視点からはじまるこの文章、ひとの死に目に会うという場面をとても柔らかく深く切り取った名文だとおもう。


死を目前にした老人を見つめていると、ふしぎに顔よりも喉仏に視線がいく。老人の身体の向きを換え、乾いた唇を脱脂綿で潤し、手を握り、少し話しかけてから、頭髪に触れてやわらかく撫でる。それから、もういちど喉仏を見つめる。しばらく見つめていると、そこだけなにか別の生き物であるような気がして、ちいさく動揺する。しかし目をそらさず、ゆっくりとズームアウトしながら、少しずつ老人のぜんたいをみわたしていく。ベッド上に横たわる老人がふたたび目の前へ現れる。喉仏と布団は微かに上下しているが、それは老人が“生きている”ということではない。この世に誕生してから昨日までずっとつづいてきた生命が、“今もまだつづいている”ということなのだ。


生まれた直後と、死に目、遠いようで、近いような…
老人の喉仏を見つめていると、そんなふうにおもえてくる。

懐かしい人たち (ちくま文庫)

懐かしい人たち (ちくま文庫)