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ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

オリーヴ・キタリッジの生活。

なんどいっても子どもがおもちゃを片付けずイライラする。チームワークを無視し続ける仲間に失望する。何食わぬ顔で割り込み乗車をする中年女。ちいさなつまずき、些細な言動、たっぷり寝たはずなのに疲れがとれない。そんなときに子どもがくれる、「パパすき」と書かかれた広告の切れ端。末っ子の寝顔。連れ合いの作るポテトサラダ。貯まったポイントで引き換える缶ビールの味。


こうしてあらためて振り返ってみると、一見なんでもない毎日のなかにもたくさんの〝揺れ〟があるということに気づく。平坦な道をただまっすぐに歩いているようでいて、実はうまくバランスをとっているようだ。揺れに足元をすくわれないように、自分なりのとらえ方でなんとかバランスをとって生きている。ときどきこんなふうに振り返ってはこのことについて思い返し、ぼんやりしながらバランスってなんだろうと考えている。

《オリーヴは心の中で、大きな破裂、小さな破裂、ということを考えていて、それで人生が決まるのだというのが持論である。〝大きな破裂〟とは結婚や子供のようなもの。そういう愛の関係があるから人間は沈まずにいられる。でも大きな破裂には、うっかりすると足を取られそうな底流もあって、だからこそ〝小さな破裂〟も必要になる。たとえばディスカウントストアへ行ったら店員が親切だったとか、ダンキン・ドーナツの顔なじみのウエートレスがコーヒーの好みを心得ていてくれるとか。ちょっとした綾というか機微というか。》(「小さな破裂」エリザベス・ストラウト 著/『オリーヴ・キタリッジの生活』 2010年 早川書房

エリザベス・ストラウトのこの連作短編集のなかには、生きた人々が暮らしている。みんながみんな、息を吸ったり吐いたりしている。バランスをとったりとりそこなったりして、小さな港町で思いおもいの生活を送っている。ただそれだけの小説。だからつまされる。


上に引いた、主人公で脇役のオリーヴ・キタリッジの持論、読んでいたらどうにも引っかかって頁に付箋を貼った。あとからこの箇所を何度か読み返してみて、大きな破裂という揺るぎないようにおもえる安心感の脆い部分を、小さな破裂というささやかな幸福感(ちょっとした綾というか機微みたいなもの)で補っていくというその感覚が、ぼくのなかにあった〝揺れに対するバランス〟のことのようにおもえてきた。


たしかにオリーヴのいうように、こういうささやかな幸福感を感じられるかどうかで、人生というのは決まってくるものなのかもしれない。たまらないほどの淋しさや絶望というのは人生にとっての脅威であり、大きな破裂やそれを補う小さな破裂を見失うことは、そういった脅威と対峙する術を失うということでもある。そんなふうに考えながらもう一度この小説を読み返してみたら、全編の底流にこの持論は流れていた。この連作短編集のなかに生きた人々が暮らしている理由がわかった。ちなみに、この感覚は佐藤泰志の小説を読んでいるときのそれに近い。


それにしても、なんで〝破裂(burst)〟なんだろうとずっと引っかかっていた。いや、いまもまだ引っかかっている。翻訳の問題なのか、日本人である自分の感覚の問題なのか、自分の感受性が乏しいだけなのか、ずっと引っかかっている。人間にとってたまらないような諸々の問題に対して、その内側から大小の圧をかけて破裂させるチカラという意味なのかなあ。ものすごく分かるような、分からないような。外国の文学は、いつもここんところがもどかしい。


人生の一冊。

オリーヴ・キタリッジの生活 (ハヤカワepi文庫)

オリーヴ・キタリッジの生活 (ハヤカワepi文庫)