ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

本の皮むき。

ついこのあいだの話。
皮むいてから読むの、といって娘は本のカバーを次々に外し、片っぱしから本をまるはだかにする。購入した本の表紙に書店がかけてくれるカバーのことを書皮と呼ぶのだから、皮をむくという表現もあながち間違いではないのだろうけれど、見ていても聞いてもなんだか痛々しくて寒々しい。どうして本の皮をむいてしまうのか娘に訊いてみると、ズルズルむけてとにかく読みにくいのだという。カバーですらそんな具合なので、うっかり帯でも付いていようものならソッコク打ち捨てられる。


カバーや帯の大切さについて説明しようかともおもうのだけれど、うまい言葉がみつからない。だって娘にしてみれば、本についてのキャッチコピーなどが刷られた帯は買ってしまえばジャマなだけだし、本を保護するためのカバーは寧ろそれ自体のほうが軟弱である。読みたい本をおもった通りにきもちよく読みたいという、そんな子どものまっすぐな欲求に対して、つける薬もないような本キチが押し付けがましく説教をたれるというのも余程に馬鹿げている。と、おもいつつもせっせとカバーや帯を拾い集め、これは大事だからそこいらにおっぽっておいてはいけないとたしなめる。せめて何処かに保管しておいて、読み終えたらもう一度カバーと帯をかけて本棚にしまってはどうだろうかと諭す。本だってはだかのままでは寒いだろうし、なにより服とベルトがなくてはカッコ悪い。だいたい、はだかのまんまで外へ遊びに行かれますかって話しですよ、と念を押す。真心こめて魂で伝えた。さすがにこれにはピンときた様子で、読んでいないときの本にはきちんとカバーと帯をかけるようになった。ほっと胸をなでおろし、こういうことは時間をかけてでもキチンと伝えていかなくてはいけないのだなとおもった。


ところがそれから数日後、仕事から帰るとまたしても部屋のあちらこちらに本のカバーや帯が散乱している。しかも、あろうことかぼくの大事な本まで全裸のまま寝転がっているではないか。なにコレ、腹いせですか?このあいだは確かにナットクしていて、きせかえ人形で遊ぶかのように楽しげにカバーや帯をかけていたはずなのに。ぼくは血相かえて風呂で鼻歌など唄っている娘のところまで走っていった。あれはいったいどういうことなのか、と問いただす。すると娘は余裕綽々の態でこういった。「ああ、あれはゆらちゃんがやったんだよ」ユラチャンガヤッタンダヨ?ゆらちゃん…。やったのは長女ではなく、今年二歳になる末っ子さんだったのだ。思考停止状態のまま居間へと戻り、破れた帯や頁、ぐちゃぐちゃに折れ曲がったカバーなどを拾い集めて補修する。目や鼻から汗のようなものが次々に流れ出したけれど、ぼくは拭いもせず歯を食いしばって作業をつづけた。風呂から出てきた娘は、ぼくの背中に向かって「パパ、泣いているの?」と声をかけてくれるが、ぼくにはもうそれに答えるだけの力は残っていなかった。


それからゆっくりと風呂に浸かり、心を落ち着かせてから晩酌をはじめた。あれこれ考えるとツラくなるので、頭も心も涙袋もカラッポになっちゃいそうなくらいに泣ける映画をみる。フランコ・ゼフィレッリの傑作『チャンプ』を。もうカラッポの脱け殻でふにゃふにゃだ。こんな映画は反則。最高。そんなこんなでだいぶんキモチも落ち着いてきたので寝る準備。傷ましい本を抱えて書斎に入り、復元可能な限りに本のカタチを丁寧に整え書棚にもどす。それから寝床に持ち込む本を数冊選んで寝室に入り、ぱちんぱちんと読書灯をつける。本を開いて胸に伏せ、仰向けに寝転がったままモノオモイに耽る。ひょっとしたら、いやひょっとしなくても、末っ子さんはまたやるだろうな。たぶんかなり楽しかったはずだし。どうしよう。あきらめるしかないのかな。いや、二歳の子どもだからといって簡単にあきらめてしまってもいいのだろうか。末っ子さんだってアンパンマンの人形を「大事」と認識しているのだから、真心こめて魂で伝えればパパの大事という感覚も伝えられるのではないだろうか。胸の上に本をのせたまま、いつしかぼくは眠っていた。


翌朝、ネボケマナコの末っ子さんを膝の上にのせ、パパの本のことなんだけどね、と話しかけてみる。クルッと振り返った末っ子さんは、小首をかしげて開口一番、「パパちゃん♪」とニッコリ。ああ、もう本のことなんてどうだっていいや…

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