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ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

志賀直哉と一疋の蜂。

仕事の関係で、死をテーマにした話を人前ですることがある。
つい先ごろにもそんな話をする機会があって、その参考資料として志賀直哉の「城の崎にて」の一部を引用した。正宗白鳥高見順の書いたものにもとてもいい一節があるのだけれど、ぼくにとって死をイメージするのに一等しっくりくるのは、志賀直哉のこの短編なのである。

《或朝の事、自分は一疋の蜂が玄関の屋根で死んで居るのを見つけた。足を腹の下にぴつたりとつけ、触角はだらしなく顔へたれ下がつていた。他の蜂は一向に冷淡だつた。巣の出入りに忙しくその傍を這ひまはるが全く拘泥する様子はなかつた。 (中略) それは三日程その儘になつていた。それは見ていて、如何にも静かな感じを興へた。淋しかつた。他の蜂が皆巣箱へ入つて仕舞つた日暮、冷たい瓦の上に一つ残つた死骸を見る事は淋しかつた。然し、それは如何にも静かだつた。夜の間にひどい雨が降つた。朝は晴れ、木の葉も地面も屋根も綺麗に洗はれていた。蜂の死骸はもう其処になかつた。今も巣の蜂共は元気に働いているが、死んだ蜂は雨樋を傳つて地面へ流し出された事であらう。足は縮めた儘、触角は顔へこびりついたまま、多分泥にまみれて何処かで凝然としている事だらう。 (中略) 自分はその静かさに親しみを感じた。 (中略) 生きて居る事と死んで了つている事と、それは両極ではなかつた。それ程に差はないやうな気がした。》(志賀直哉 著「城の崎にて」/『小僧の神様 他十篇』2002年 岩波文庫


死について話をするといっても、実際には死についてのピンすらも分かってなどいないのだから、まったくもって雲をつかむような話にしかならない。ただ、近しい者の死、遠い者の死、つくりモノの死、というふうに自分の中に具体的なイメージをつくって考えてみると、ぼんやりとしたなにかがうっすら向こう側にみえてくる。たぶん、それはそこはかとない淋しさのようなもの、なのだとおもう。そこはかとない淋しさ…
たとえば、どのようにして死に至ったかということは、あなたにとってのみ関心のあることであり、ぼくにとってはさして関心のあることではないかもしれない。でも、どこかに灯った命がある日とつぜん消えてしまったという事実、そのそこはかとない淋しさについては、あなたとまったく同じではないにしても、分かち合うことができるかもしれない。言葉にならない、淋しさの檻のなかで。


一疋の蜂は、如何にして玄関の屋根で死んだのだろう。
可能な限り生きつづけた末なのだろうか。
なにかの戦いに敗れたのだろうか。
それとも大自然の猛威によって力尽きたのだろうか。
そのいずれかであったとして、そこにどれだけの差があるのだろう。
いずれにしても、亡骸となった一疋の蜂から受ける印象は、とても静かなものである。
静かに自然を見つめ、そこはかとない淋しさを感じ、死をおもう。
嘆き、哀しみ、恨み、怒り、悔恨、安堵…
その過程にあったであろうすべての事柄を超えた静かさの訪れることを、ぼくは切に願う。
そこはかとない淋しさを胸に。


一疋の蜂の死が、静かなものでありますように。

小僧の神様―他十篇 (岩波文庫)

小僧の神様―他十篇 (岩波文庫)