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ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

冬と本の科学反応。

ついこのあいだ買ったばかりの、「冬」と「本」という二つのキーワードからなるアンソロジー『冬の本』(2012年 夏葉社)が想像以上によかった。一度読み終えてからも身近なところに置き、パラパラと頁をめくっては無作為にひらいたところを再読している。おもいおもいの冬と本が調合されたこの本を読んでいると、冬の印象がとてもあたたかくなってくる。心までぽかぽかしてくるようだ。このすてきな化学反応に酔いしれているうち、ぼくにとっての冬と本の化学反応もつい探してみたくなった。


小学生の頃、授業中におしゃべりをしていたら先生に怒られた。廊下に立っていなさいといわれたので、おしゃべり仲間と一緒に廊下へ出た。二人ともしばらくは静かに窓の外などを見つめて立っていたのだけれど、沈黙の重さに耐えきれず、やがてぼくらはおしゃべりを再開した。すると、ガラガラッと勢いよく教室の戸が開いて、漫画のように真っ赤な顔をした先生が大きな声でこういった。裸足になって外へ立っていなさい、と。季節は冬。外にはしんしんと雪がふりつもっていた。その場で上履きとくつ下をぬぎ、廊下の隅にそれらを揃えて並べると、ぼくらは真っ白なふわふわとした新雪の上にいくつもの小さな足あとをつくった。たのしいとおもえたのは、ほんの数秒だった。みるみる足は赤くなり、冷たさは痛さへとかわり、そのうちアタマまで痛くなった。ぼくのおしゃべり仲間は泣きだして、先生のもとへと走った。おしゃべり仲間はそれっきり戻ってこなかった。けれども、ぼくはどこへ行こうともおもわなかった。ただただグッとこらえ、ある少年のことだけを考えた。涙のかわりに鼻水がとめどなく流れ、永遠ともおもえるような哀しみの時間を過ごした。もうすぐ授業も終わるだろうか。ふと振り向くと、そこに先生が立っていた。なにもいわず、ジッとこちらを見つめたままでこういった。「君はこまったことになるとおしゃべりができなくなる子なんだね」ぼくはクッと見つめ返し、「べつにこまってなどいないから」と答えた。先生はなにもいわず、ぼくの首根っこをつかむと引きずるようにして教室へと戻った。遠ざかっていく雪の中に、ぼくはあの少年をみていた。


冬というと、未だにこのときの思い出がよみがえる。それと同時に、イギリスの作家ウィーダが19世紀に書いた児童文学の名作「フランダースの犬」も一緒になって思い起こされる。はっきりいって、ぼくはこの物語が好きではない。どちらかというと苦手なくらいだったかもしれない。ひねくれもので天邪鬼なぼくにとって、主人公の少年ネロはあまりに正直で健気すぎたのだ。それでも「フランダースの犬」のことを毎年こうして思い出すのは、あの雪の中に裸足で立たされたおしゃべり少年と、アントワープ大聖堂でパトラッシュと共に凍死していくネロとを、あの頃のぼくが重ね合わせて見ていたからにほかならない。


卒業してから何度目かの冬、定年を迎えた先生から一枚のはがきが届いた。内容はもう忘れてしまったけれど、はがきに醤油のような黒っぽいシミがついていたことを鮮明に憶えている。ショックだったのだ。いや、さみしかった。あの厳格で一歩も引くことのなかった先生が、シミのついたはがきを教え子に送ってくるなんて。うす暗い部屋でひとりコタツに入って、醤油のこぼれたテーブル面ではがきを書く先生の姿を想像し、ぼくは小さく胸を痛めた。それからそう時をおかずに、先生が死出の旅に出られたことを知った。哀しみよりも、シミのことをおもってまたさみしくなった。先生、こまったことになると、あいかわらずおしゃべりができないままのぼくです。


ぼくにとっての冬と本の化学反応は、少しだけ淋しくなる。