ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

本と別れる時のマナー。

まだ正月気分がぬけきらず、どこか気持ちが浮ついている。昔から場面のスイッチをするのがヘタクソで、そのせいか周囲からとりのこされてしまうことがしばしばあった。それでも子どもの頃はまだよかったのだけれど、社会人となった今はいつまでもそんなことを言っていられない。なので、とりあえず昨年末から積まれたままになっている、あいおい文庫の蔵書整理をはじめてみるところから日常へのスイッチを図った。


以前にもそんなことを書いたのだけれど、あいおい文庫の蔵書整理をする時間というのは、自宅でおこなうそれと違って、普段ならあまり手にとることのないような作家さんの本に触れる貴重な機会でもある。ついこのあいだも、いただいた数箱分の本に蔵書印を捺そうかと適当に選んで頁を繰っていたら、こんな文章にぶっつかった。

《本を選ぶ技術、などというものはない。人が選ぶと同時に、本に選ばれるのが読み手である。買って損をしたと思ったとしても、それはそれで何かの意味があるのではないか。人生は役に立つことばかりで成り立つわけではない。無駄な本を沢山読んだあとでこそ、この一冊に出会って感動するのだ。本にかける金を惜しむべきではない。読んだ本の中から、百分の一くらい保存し、再読、三読する。あとはちゃんと紙カバーをかけたまま、電車の棚にでも放置する。きっと誰かが拾って読むだろう。書店でカバーをつけてもらったら、そのまま捨てることが大事だ。それが本と別れる時のマナーだと思う。》(「本とDVDを選ぶ」五木寛之 著/『選ぶ力』2012年 文藝春秋

一冊の本との運命的な出逢いに大きな悦びを感じ、そのためにかけるお金は決して惜しまない。人生なんて無駄の連続で成り立っているのだから、役に立たないとおもわれるような本を買ってしまったからといって後悔などしない。大好きな本にはパラフィンをかけて大切に保管するし、一冊の本を三読だって四読だって五読だってする。うんうんと大きく頷きながら、この著者の書いたものをはじめて読みすすめた。


本が旅をして、何処かの見知らぬ街で偶然、ふと手にした誰かに出合って読まれる。著者がそういうイメージを抱いて電車に放置しているのかどうか分からないけれど、きっと誰かが拾って読むだろうと期待して本に旅をさせているのであれば、これは五木寛之流のブッククロッシング、ということになるだろうか。世界的な規模で展開しているブッククロッシングだけれど、すでにこの運動そのものが「本と旅」という一つの物語のようで、とてもロマンチックだとおもう。あいおい文庫にも、そんな旅の途中にある本たちが時折りぶらりとやってくる。忽然と現れた本の表紙に、擬人化された黄色な本のマークを見つけると、その本の歩んできた道中を想って、じいんとなる。


本と別れる時のマナーには、きっとそれぞれにとっての「ふさわしいマナー」というのがあるとおもう。読書はもとより本そのものが好きなひとであれば、無下に捨てるようなことはしないだろうから、ふさわしいマナーということで一番に考えるのは、次の読み手へのバトンタッチということになる。ぼくの場合でいうならば、次に買う本のための軍資金にもしたいので、本の専門家のいる古本屋さんへ持っていくというのが圧倒的に多い。本に適した環境のなかで次の読み手に渡す最良の方法であると同時に、得たお金でバトンタッチを受ける側にもなれる。いまどきは素人でも一箱古本市やインターネットでバトンを渡す機会がもてるけれど、渡す側がバトン探しばかりに夢中になっている様子をみると、ぼくのおもう「本と別れる時のマナー」とは少し違ってくる。それぞれにとってのふさわしいマナー、それでいい。


またぼんやりしちゃった。さあ、蔵書の整理を…