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ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

じかんのはなし。

雪雲に覆われた暗澹たる思いに雪は降り積もり、追い討ちをかけるかの如く白銀の煌めきと静寂が世界を奪う。そんな数年ぶりの大雪に、ひねもすのたりと本が読みたくなった。きっと本が好きなひとにならわかってもらえるとおもうのだけれど、しんしんと降り積もる雪を窓の向こうに感じ、奪われゆく世界の中でぬくぬく本を愛でるしあわせ、此の上ない。どれ、そんな一日にぴったりな一冊でも探すところからはじめるとしようか、そうおもって胸を弾ませ腰を上げると、すぐさま子どもたちが寄ってきていった。雪で遊びたい、と。


どったんばったん家の中でやられるよりは、外で雪遊びでもさせておくほうがいい。かといって、はじめての雪の中に子どもたちだけをほっぽらかしておくわけにもいかない。さらには風邪ぎみのため外に出ることの叶わない末っ子さんが、悔しさと期待のいりまじった表情でこちらをジッとみているではないか。しかたがない、雪だるまでもつくったあとで至福のときを過ごすとするか。


雪だるまをつくりあげたあとも、ずんずん積もって雪は降りやまない。おもえばこれほどの雪を見るのも近年めずらしいことで、この機会を逃したらまた数年は雪遊びなどできなくなるだろうし、成長著しい子どもたちと雪で遊ぶなどということ自体、この先もう二度とないやも知れぬ。まだ時間はたっぷりとあるのだから、カマクラでもつくってみようか。そうして近所の子ども数名を率いて(なぜだか行きがかり上)のカマクラづくりは始まった。


意気揚々とはじめてはみたものの、これがおもいのほか重労働でしんどい。そもそも気怠い休日モードだったのに、大人はたったの一名。あとは勝手気儘で統率のとれない、ちいさな戦力のみである。午前中にはじめた作業はお昼休憩をはさんでおやつどきまでかかり、その後も記念撮影やら雪合戦やらで、いつしかとっぷり日が暮れた。相変わらず雪は降り続け、おそろしく寒かったはずなのに、気がつけば汗みづくになっていた。


油の切れた自転車のようにキーキー軋む身体で湯船に浸かり、ふと浴室の時計に目をやれば間もなく一日が終わろうとしていた。とても楽しい一日だったのだけれど、胸を弾ませ考えた朝のような一日にはならなかった。叶うものなら時計を巻き戻してもう一度今日をやり直したい。ちらりとよぎった妄想から、そういえば幼い頃にも同じようなことを考え、あきらめの気分を痛切に実感したことがあったと思い出した。楽しみにしていたテレビアニメを見逃して、泣きながら時計の針を巻き戻したのに何一つ変わることのなかった現実。ぐるぐるぐるぐる、どれだけ回しても決して取り戻すことのできない過ぎ去りし時間。あの頃は、時計があるから時が過ぎるのだと本気でおもっていた。

《時が過ぎていく、という残酷な事実を告げるのに無愛想もやさしさも関係ない、とすぐに知った。時計があるから時が過ぎるのではなく、時が過ぎるから時計があり、時計がなくとも時はやはり際限なく過ぎていくのだ、ということも若干のあきらめの気分とともに学んだ。しかし、長いあいだ毎朝置時計のネジを巻くことはやめなかった。(中略)時が勝手に行くのではない、自分が時間を刻ませている、だから自分も意志的に変わっていけるのだ、と当時のわたしは信じようとつとめたのである。》(「じかんがどんどんすぎていきます」関川夏央 著/『家はあれども帰るを得ず』1998年 文藝春秋

関川夏央さんのエッセイを再読していたら、ついこのあいだ思い出したばかりの幼時の追憶が呼び起こされ、呼び水となった一文が琴線に触れた。鍵っ子だった著者が無人の室内に入ったとき、時計が時を刻む音と合わさってひそかにおそろしく感じられる、そういう寂寞としたイメージがこのエッセイには終始漂っていて、幼時に知った時の過ぎゆく残酷さを追憶しヒリヒリした。


ぼくは成長していく過程でネジ巻き式の時計に出合わなかったので、「自分が時間を刻ませている、だから自分も意志的に変わっていけるのだ」というような、ちょっとハードボイルドな匂いのする格好いいケリのつけ方はできなかった。ただ、どれだけ時計の針をぐるぐる回しても、終わってしまったタイムボカンは決して見ることができない。だから再放送されるそのときまで、じっと辛抱強く待つしかない、と当時のぼくはつとめたのである。

家はあれども帰るを得ず (文春文庫)

家はあれども帰るを得ず (文春文庫)