ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

読み書きのこと。(二)

ぼくは「話す」ということが苦手だ。誰かにこれを伝えたい、と思うことは多々あるのだけれど、それを話して伝えるとなるとたちまち萎んでしまう。


話すことで言葉を放してしまうと、放された言葉たちがカタチにならずに空中を彷徨っているイメージが頭に浮かぶ。眠る前などに一日を振り返ってみるとき、その浮遊し続ける言葉をおもっては戦慄がはしる。また、十分に自分の中で醸されていない言葉をテンポよく会話として生み出し続けるというのにも不安がある。そもそもぼくは頭の回転が速いほうではないので、どうしても会話のなかに間ができて途切れ途切れな感じになってしまうのだ。間ができると、その間を埋めるためにまた新たな言葉を生み出さなくてはならなくなる。いや、勝手にそうおもって気負ってしまう。そうなると頭の中がオーバーヒートしてしまい、言葉はよりしどろもどろなものとなる。なので、大切な人にせっかく会えたとしても、結局うまく向き合うことができず、ただ時間だけが過ぎてゆく、ということになる。気が置けない仲間とする、いつものくだらない話ならいくらだってできるのに。


読むというのは、書き手の話す一方的な言葉に耳を傾ける、ということ。読み手は目で噛むようにしながらそれを受け入れ、受け入れたくなければ放り投げてしまえばよい。書くときはその逆で、自分の言葉をカタチにして一方的に話す、ということになる。書き手が読み手をどのように意識して書いているのかは人それぞれだろうけれど、ぼくの場合は自分の考えをカタチにして残したいというのが先ずあって、それから誰かに伝えたい、わかってもらいたい、そんなふうにおもって書いている。所詮は素人のつぶやき、ということになるのだろうけれど、ぼくにとっての読み書きというのは、ものすごく引っ込み思案でわがままな対話方法の一つでもあるのだ。話すのは苦手、だけど誰かに伝えたい想いがある。話が聴きたい、だけどうまく向き合えない。だから読み、だから書く。


一方通行のようでいて、どこかで通い合っているところがある。バラバラのようでいて、きっとどこかでつながっている。ぼくにとっての読み書きとは、そういうものなのだ。読み書きがなかったら、たぶんぼくはとっくに行き詰っていただろう。(…つづく)