ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

読み書きのこと。(三)

狂ったように古本ばかりを買い漁っていた時期があったけれど、ここのところはそれもずいぶんと落ち着いてきた。狂ったように、というのは文字通り狂っているとしか思えないような行動のことを意味し、ここに書くことも憚られるくらい古本屋に通いつめていたのだ。


フランス文学者である鹿島茂さんの著書に「子供より古書を大事と思いたい」という迷著があるのだけれど、これは冗談ではなく、本当に古本にはそういう生活の一部を犠牲にしてでも手に入れたくなるような魔力みたいなものが備わっているのだ。ひとたびこの魔力にやられてしまうと、たちまち頭の中も家の中も本で埋め尽くされてしまう。それとは対照的に財布の中身は減り続け、気がつけば食うものも食わずに本の山塊で行き倒れることとなる。古本というのは、まったくもっておそろしい。

《この町でも、父親はまた、ホテル探しよりも古本屋探しを優先してしまった。(中略)古本屋探しに時間を取られてしまったため、今度はどこのホテルでも空室が見つからない。(中略)子供は疲れ果ててラルースの上で寝ている。母親はあきれかえって口をきこうともしない。なにもかも、古書が悪いのだ。だが、それでも……子供より古書が大事と思いたい。》(「子供より古書が大事と思いたい」鹿島茂 著/『子供より古書を大事と思いたい』1996年 青土社

家族旅行であろうと、出張であろうと、出先のことを思って一番に浮かんでくるのはその土地の古本屋のことだ。なにはさておき古本屋を探す。目的地を中心にどのようなルートで行けばより多くの古本屋を回れるのか考え、自分好みのジャンルを得意とする古本屋がそのルートから外れていれば、そもそもの目的自体を変更せざる得なくなる。また、通りがかりに古本屋を見つけるようなことになれば、当然そこに立ち寄らないわけにはいかなくなり、当初の予定を大幅に変更して古本を漁る。古本屋を回るごとに荷物は増え、あまりの重さに観光なんてもうどうでもよくなってくる。欲しいものが手に入ってご機嫌のぼくと、予定していた楽しみが奪われ不機嫌になっていく家族。まったく最悪だ。なにもかも、古本が悪いに決まっている。


冗談(?)はさておき、見て、嗅いで、触って、読んで、感じることのできる古本というのは、その時代をリアルに体験できるという点で他の追随を許さないくらい圧倒的だ。それはもはや時代の象徴ですらあるとおもう。魔力というのは、経てきた時代の重さに比例して宿るものなのかもしれない。淘汰の波に耐えてきた古本たちを読むことによって、機微をうがつ先人の声に耳を傾け、ながい時を経てきた紙の匂いや手触りによって時代そのものを感じることができる。それは読み書きを愛する者にとっての神器であり、ぼくにとってこれ以上ないくらい刺激的な対話相手となるのだ。


きっとこれから先もずっと古本を買い続けていくのだろうし、先人たちの声に耳を傾け続けてもいくだろう。そうしてぼくなりの対話から生まれた機微のようなものを、こうして少しずつ書き留めていくのだろうし、またそれを道標にしながらゆっくりと歩み続けてもいくのだろう。自分の居場所をその都度確認しながら。読み書きをするということは、ありのままの自分と向き合う、ということなのかもしれない。(了)

子供より古書が大事と思いたい 増補新版

子供より古書が大事と思いたい 増補新版