ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

シャッターチャンス。

ここのところ、写真を撮ることに凝っている。


ファインダー越しに世界を覗くと、すべてのことは過去になっていくものなのだと、リアルに感じることができる。さっきまでここにあったはずの現在(いま)はもうどこにもなくて、まるで車窓から眺める景色のように、時々速度をかえながら後ろへ後ろへと流れていく。現在を見つめながら過去へと流れ、未来に向かって進んでいる自分を知る。未来なんてただの想像でしかないけれど、そうだとわかっていても、その想像を頼りに現在を生きていくしかないのだ。現在だって、過去だって、ひょっとしたらぜんぶ想像の産物なのかもしれない、ともおもう。だからぼくは、たしかな手触りが欲しくて、シャッターを切る。


自分の中にしかなかった世界が、ないとおもっていた世界が、写真というカタチで目の前に現れると、少しほっとする。しかし、そうしてようやく安堵の胸をなで下ろすことができたというのに、切り取った世界を見て、またそこではないどこかへ思いを馳せてしまう自分がいる。たしかにあっても、本当はなかったとしても、そこに在る世界から過去や未来に思いを馳せていくというのは、止めようのない性のようなものなのかもしれない。流されながらも前に向かって進むためには、たしかな手触りを感じるために想像しつづけていくことが必要なのだとおもう。


好きな作家によって書(描)かれた独自の視角につよく惹かれるというのも、シャッターを切る快感に酔い痴れるというのも、そもそもの原点は同じところにありそうだ。たしかな手触りを求めている、という意味において、撮ることと読み書きすることはよく似ている。いずれも出来るだけ日常に近いところで感じられるほうがいい。一番近いところってどこだろう、と考えてみたら自分のまんなかだった。人間のまんなか。まんなかにあるものをカタチにするために書き、カタチになったものを読んで確かめて、また想像する。撮って、切り取って、カタチになっているものを見てまた想像し、自分のなかにしまったり捨てたりしながら前に進んでいく。


前を向いて進むのもいいけれど、たまにはうしろを向きながら前に進むのというのもなかなかいい。想像のタネは其処彼処に散らばっているから、一方向だけを向いて進むなんてもったいない。上向いたり、下向いたり、横向いたりもしながら、普段よりゆっくりゆっくり歩いてみる。すると今まで見えていなかったものが、だんだんと見えてきたりする。シャッターチャンスは、きっとそこにあるのだと、信じている。