ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

ペソアの詩集。

ここ一週間ほどひどく体調がわるく、本を読むことさえもままならないような日が二日ほど続いた。病院に行っていくつかのつらい検査をしてきたのだけれど、とりあえず大事に至るようなことはないらしく、安堵した。どうなったっていいようなものだけれど、子どもたちが大きくなるまでは、石にかじりついてでも生きて働かねばならない。ふだんはのらりくらりとどうでもいいようなことばかり考えているのに、身体が発するSOS信号をある日とつぜんキャッチしたかとおもったら、ぼくのなかにある責任というスイッチが自動的に入り、将来のことなどを真剣に考えてみるようになった。少しおおげさだけれど、身辺の整理などについても考えてみたりして。これまで闘病記は何冊か読んでいるし、仕事がら実際に闘病されている方の支援などもしている。しかし自分自身が体験してみるのと、誰かのことを通じて思ひ量るのとでは、人生に対する価値観そのものに雲泥の差が生じるのだということを学んだ。あらためて身体に感謝、の日々である。


臥せっている間ほとんど本を読めなかった反動なのか、ここ数日は砂漠でオアシスを見つけた旅人のように、がぶがぶと本を読んで渇きを癒した。なかには胸を打ちぬかれるような本も何冊かあり、ふかく心におちる文章にも出合えた。またそのことも少しずつ書き留めていきたいとおもっているのだけれど、今回はかろうじて布団のなかで読むことのできたフェルナンド・ペソアの詩から感じたことを少し。

ぼくらのなかには 無数のものが生きている
自分が思い 感じるとき ぼくにはわからない
感じ 思っているのが誰なのか
自分とは 感覚や思念の
劇場にすぎない


ひとつではなく いくつもの魂をぼくはもっている
ぼくではない たくさんの自分がいる
けれども 彼らとは無関係に
ぼくは存在する
彼らを黙らせ ぼくが語る


ぼくが感じたり 感じなかったりする
諸々の衝動が交差し
ぼくのなかで 対立しあう
ぼくは無視する 自分の存在を知る者に
そんな衝動が告げるものなどいない 書くのはぼくだ
(「リカルド・レイス詩篇」/『ペソア詩集』2008年 思潮社

ペソアのことは、荻原魚雷さんのブログ(現在は著書『活字と自活/本の雑誌社』に所収)で知った。読んですぐに興味が湧き、安くはなかったがネットで2冊まとめて購入し貪り読んだ。それはもうずいぶんと前から知っていた本のように、すうっと胸の真ん中あたりで馴染んだ。少し前に平凡社ライブラリーから「新編 不穏の書、断章」が出たのでこれも買い、思潮社から出ている「ペソア詩集」と一緒に枕元に置いて、ぱらぱらと無作為に頁をひらいては味わって読んでいる。ゴロゴロしながら読むには重すぎた本が、こんなふうにコンパクトになって出版されるというのは涙が出るほどありがたい。しかも、まさかこの本がこういうカタチで出るとは。平凡社ライブラリー、やるよなあ。


上に引いたレイス名義の詩は、こわいくらいに共鳴してしまった一篇。病床にあって長い文章を読むチカラのないときにこの詩を読んでいたら、心がふるえて止まらなくなった。たぶん、起き上がることのできない身体と頭で考えすぎていたし、ぼくなりのいろんな葛藤もあって、自分のなかに住むたくさんの自分たちがいつもより余計に主張しすぎていたためなのだろう。自分の内面にある何ともいえない苦しみを、どうにかうまく言葉にして解放できないものかとおもっていたら、ペソアによってそのものずばりと書かれていた。ふるえが止まらなかったのは、きっとそういうことなのだとおもう。


ペソアのこの詩を読んでから、ぼくは憑かれたようにあれこれ書いた。ぼくの生きているあいだは絶対に誰にも見せることのないであろうあれこれを、おもうがままに書き綴った。諸々の衝動が交差して言葉になったそれらを書いたのは誰でもない、ぼくだった。

新編 不穏の書、断章 (平凡社ライブラリー)

新編 不穏の書、断章 (平凡社ライブラリー)