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ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

リディア・デイヴィスを読む。

興味さえあれば古い新しいにかかわらずどんな本でも買って読むのだけれど、小説に関しては古本で買うことのほうが多い。それは古本でしか買うことのできない本であったり、その時代のよさを感じられるような本が欲しかったりするからなのだけれど、あまり最近の小説に興味がないということも一つある、海外の小説をのぞいては。

《私たちがある特定の思想家に共感するのは、私たちがその人の考えを正しいと思うからだ。あるいは私たちがすでに考えていたことをその人が私たちに示してくれるから。あるいは私たちがすでに考えていたことを、より明確な形で私たちに示してくれるから。あるいは私たちがもう少しで考えるところだったことを示してくれるから。あるいは遅かれ早かれ考えていたであろうことを。あるいは、もしも読んでいなかったらもっとずっと遅くに考えていたであろうことを。あるいは、もしも読んでいなかったら考える可能性があっても結局は考えなかったであろうことを。あるいは、読んでいなかったら考える意志があっても結局は考えなかったであろうことを。》(「共感」リディア・デイヴィス 著/『ほとんど記憶のない女』2005年 白水社

これは翻訳者の岸本佐和子さんをして「運命の本と出会ってしまった!」と言わしめる、リディア・デイヴィスの短編集『ほとんど記憶のない女』からの引用。この一文をはじめ、ぼくは彼女の書く、そのほとんどの感覚に共感する。共感というよりも、それはそのままいつも思っていることに近いのだけれど、思ってはいても読んでいなかったら結局は考えていなかったであろうとおもう、あるいは…。


ぼくは人の思索の過程がリアルに読みとれる本を手にしたときに、もっとも読書欲をそそられる。ひとが思索のスパイラルの直中に在るとき、どのようなプロセスを経てその先へ進むのか、そこに興味がある。自分にとって好いものかどうかを選ぶ基準はいつもその辺りにあって、本のなかにはそういった過程がつぶさに語られていることが多い。この本は、まさにそういう一冊であるとおもう。


この短編集に収められた物語は、一見抽象的で無機質な印象を受けるものばかりなのだけれど、読んでいるうちにそれが物語ありきの文章ではなく、書き手の思索のスパイラルのなかで生まれた言葉たちが、一つのカタチとなってあらわれて物語になっているのだと分かる。それが私小説を読んでいるときのような趣となって、たまらなくいい。五十一編の多彩な小品を一つひとつ読んでいると、まるで自分のなかに住んでいる別の誰かと会話をしているような変な錯覚に陥る。接近したかとおもえば突き放される。別の場所には俯瞰する自分がいて、ジッと見られて不安定な心もちになる。書き手と読み手の距離感みたいなものがひどく取りづらく、時々迷子のようになって途方に暮れる。


ここには誰の中にもきっとある、孤独とか焦燥とか不安定さとか、そういった感情の揺らぎや人生の機微のようなものが淡々と、なのにユーモアも感じられる語り口で書かれている。至高の思索のスパイラル。なんども読み返している、手放すことのできない人生の一冊。

ほとんど記憶のない女

ほとんど記憶のない女