ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

救いのない物語。

夜を徹して本を読んだ。ほんとうに久しぶりのこと。眠れない夜に読んだり、彼は誰時に目覚めて読んだり、そうして迎えざるを得ない夜に読むことはあるけれど、ページを繰る手が止まらない夜というのはここのところずっとなかった。明日があるから、そんなふうにおもうようになってからだろうか。でも、ふとんのなかで読みはじめた本を、夜が明けて小鳥が鳴きはじめる頃に読み終える達成感と軽い疲労感というのも、たまにはいいものだ。

《人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ。》(村上春樹 著『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』2013年文藝春秋

村上春樹の書いた、いくつかの長編といくつかの短編にとても好きな作品があって、ときどき思い出したように読み返す。これとこれ、こことここ、そんなふうに好きなところだけを選って読んでいるので、一冊のなかの数頁だけがとびとびにひどくヨレていたりする。きのう夜を徹して読んだこの新刊も、きっとまたそんなふうにして所々読み返す一冊になるような気がしている。


先に引いたのは、この救いのない物語の核周辺に当たる部分(彼の多くの作品がそうであるように)だとおもうのだけれど、物語の内容そのものとは別に、こんなことを感じた。人はいつも誰かに赦されていたいと願っているものだ、ということ。ずっと昔からそうなのか、現世がそうなのか、いつの時代にもそんなことはないのか、ほんとうのところはよくわからないのだけれど。業、というよりも存在そのものを赦されたくて、心と心の結びつきを欲し、できることなら誰かとつながっていたいと願う。しかしそれが調和だけの結びつきであれば、その根底にあったものが露呈したとき(または露呈を懼れたとき)たちまちにして破綻する。傷つき、痛みを感じ、血を流し、悲痛な叫び声をあげたことは自分を知るための一つのきっかけとなり、それはまた人を赦すことにもつながっていく。真の調和というのは、そうして生まれていくものなのではないだろうか。あるいは世界と自分とをつなぎとめておくために必要なこととして。


身の程を知らないと、人は渇いて孤独になる。まるで人生のすべてを失ったかのような孤独を。この物語を含め、村上春樹の小説を読んでいると、いつも救われない虚しさばかりが胸に残る。

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年