ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

ここんとこ読んだ本(三)。

ここんとこ読んだ本で、こころにおちた本シリーズ。

「想像ラジオ」いとうせいこう 著(2013年 河出書房新社
「長く働いてきた人の言葉」北尾トロ 著(2013年 飛鳥新社
「眺めのいい人」伊集院静 著(2013年 文藝春秋
「独学でよかった」佐藤忠男 著(2007年 チクマ秀版社
「アップダイクと私」J・アップダイク 著(2013年 河出書房新社
「春夏秋冬」生島遼一 著(2013年 講談社
加能作次郎集」加能作次郎 著(2004年 富来町図書館)
「フリント船長がまだいい人だったころ」N・ダイベック 著(2012年 早川書房

今回は黒っぽい本を外し、ここ数年のあいだに出た本でこころにおちたもの、という感じで選んでみたらこうなった。


今日は11日。以前にも書いたのだけれど、毎月11日かその前後には、決まって『3.11慟哭の記録』(2012年 新曜社)などの、被災の手記を中心に読み返している。それは、あの日を忘れないために読んでおこう、というわけではなく、自分の中にあるモヤモヤしたものと折り合いをつけるために、あるいは自分を戒めるために読み続けているのだとおもう。いくぶん儀式のようなものでもあって、そのことで時々たとえようのない後ろめたさを感じることもある。あのときそこにいなかった自分は、いまもそこにいない。しかも生きてさえいる。自分のやっていることのなにもかもが胡散臭く感じられ、いったいなにをしたらよいのか分からなくなる。ずっと分からないままなのだけれど、とにかく声だけは聴きつづけていこうとおもった。そこにいたひとたちの声に耳を傾け、亡くなったひとたちの声に耳を傾ける、傾けつづける。そう決めた2年前から、ぼくのなかにあった「想像する」ということのもつ意味は大きく変わった。ぼくの想像によってのみ支えられつづけているその不確かな決めごとは、『想像ラジオ』を読んだことで「確かな不確かさ」に変わった。この先も想像することをやめない努力を続けていこう。この本もまた、11日前後に読み返す一冊となるのだろうとおもう。


ぼくは「無頼」という言葉に弱く、本の帯にこの文字が書かれているだけでついつい手が伸びてしまう。たとえば文藝春秋から二次文庫として出たばかりのエッセイ集『眺めのいい人』の帯コピーには〈無頼派作家の二日酔い交遊録〉とあって、これを目にした途端、中味も確かめずにレジへと走ってしまったくらいだ。小説はまだ読んだことがないのだけれど、伊集院静氏の書くエッセイは好きでよく読んでいる。無頼派と呼ばれる作家の書く文章には、意外なほどにロマンチックであたたかなものが多い。いや、ぼくがロマンチックであたたかな無頼派作家を好むからそうおもうだけなのかもしれないけれど。いずれにしても、この作家のエッセイ集にはいい時代、楽しい時間を過ごしてきたひとだけがまとう空気感みたいなものが漂っていて、その空気感がロマンチックであたたかな文章に花を添えている。この本の中で著者は、深く慕っている色川武大のことを「眺めのいい人」であったという。眺めのいい人、最高の褒め言葉だとおもう。きっと、とてもいい付き合いをしてきたのだろう。こういう表現は、いい付き合いをしてこなければ決してできないものだから。読み進めながら著者の交遊の広さと深度を眺めていて、ふとこんなことをおもった。眺める人自身の眺めもよくないと、おそらく眺める相手のことをそんなふうに見ることはできないだろう。いい付き合いのなかに、いい時間は生まれる。いい時間の積み重ねが、いい眺めを生むものなのかもしれない、と。


こころにおちた本。自分のなかにある大事な場所、ときどき確認しておきたい場所、そういう場所とつながっている本たちには、一種の安定剤のような効き目がある。季節の変わり目の少し浮ついたこころには、こういう本たちが、よく効く。