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ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

老いたるえびのうた。

あたたかい日が続いたかとおもえば、急にぐっと冷え込む。衣がえのタイミングがうまくつかめず、気をつけてはいるのだけれど、子どもたちはすぐに体調を崩す。予定していたお出かけはできなくなり、そのことを子どもたちに伝えると、えびのように身体をくねらせ畳の上で泣きわめく。きっかけはともかく、途中からどこがどう悲しかったのかも忘れて、ただもう目一杯えびのように伸びたり縮んだりしながら悲しんでいる我が子を見ていると、最初は少し切なくて、途中からなんだか可笑しくて、最後のほうになるとこっちまでどっぷり悲しくなる。そんなふうに身体中で泣きわめく子どもたちを見ていたら、室生犀星のこの詩を思い出した。

けふはえびのように悲しい
角やらひげやら
とげやら一杯生やしてゐるが
どれが悲しがってゐるのか判らない。


ひげにたづねて見れば
おれではないといふ。
尖ったとげに聞いて見たら
わしでもないといふ。
それでは一体誰が悲しがってゐるのか
誰に聞いてみても
さつぱり判らない。


生きてたたみを這うてゐるえせえび一疋。
からだじうが悲しいのだ。
(「老いたるえびのうた」室生犀星 著/『蜜のあわれ・われはうたえどもやぶれかぶれ』1993年 講談社

そういえば、いつからだかそんなふうには泣けなくなった。泣き終えたあと、ひっくひっくと泣きじゃっくりが出るほど大泣きしたのは、いつの頃だったろう。大人になってからも悲しいことはたくさんあるのだけれど、えびのようになってひどく悲しむということはとんとなくなった。最初から最後まで自分の悲しさにはきちんと理由があって、それを見失うことのないようにコントロールしている別の自分がどこかにいる。でも、それでいい。あの頃と違って大人になった今は、身体中が悲しみに支配されてしまうことに耐えられそうもない。


上に引いた「老いたるえびのうた」は、肺ガンを患った犀星が闘病生活の果てに書いたもので、この作品を最後に絶筆となった。この詩が最後というのは、あまりに犀星らしい、というような気がする。ガン闘病記である「われはうたえどもやぶれかぶれ」を読んだあとにこの詩を含むと、えびに喩えた悲しみがよりひどく痛いものに感じられる。肺ガンというのは辛くて苦しい病気だ。この頃にはもう局所の進展があったようだから相当に苦しかっただろうし、痛くもあっただろう。きっと、病床にあって心も身体もえびのように伸びたり縮んだりしていたのではないかと想像する。そんな自分を俯瞰してえびに喩えたのか、それともえびを見て今の自分に似ているからと比喩したのか、それはわからないけれど、いずれにしても著者のなかにひどく痛くて悲しいえびが住んでいたことだけは間違いないだろう。


しばらくは、えびを食べられそうもない。

蜜のあわれ・われはうたえどもやぶれかぶれ (講談社文芸文庫)

蜜のあわれ・われはうたえどもやぶれかぶれ (講談社文芸文庫)