ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

息抜きの読書。

おもうところあって、ここ最近は仕事に関する本ばかりを読んでいる。小難しい専門書の類いばかり読んでいると、頭がシビレて朦朧としてくる。むかしに比べて脳みそがだいぶん弱ってきているので、いっぺんにあれこれ詰め込もうとすると身も心もぐったり疲れる。ここらへんで息抜きに、あまり深く考えずともグイグイ入っていけるような小説が読みたくなった。どこでもないどこかへまっしぐらに突っ走っていくように、読みたい。


荻原魚雷さんのブログを読んでいたら、久しぶりに佐藤正午の名前を見つけ、二十代の前半によく読んでいたのを思い出した。佐藤正午についてアツく語っている魚雷さんの文章を読んでいるうちに、この作家の書いた小説を堪らなく読み返してみたくなり、深夜に本の山をひっくり返したり積み直したりしながら、ようやく何冊か見つけることができた。随筆については1〜2年のうち何冊かは手にとって読み返すことがあるのだけれど、小説についてはもう何年も人知れず埋もれたままになっているもののほうが多い。発掘の過程で気になって脇にどけた他の本も何冊かあり、埋もれていた本がこんなふうにしてあらためて日の目を見るというのも、おもしろい読書の縁だな、とおもう。あの文章からこの本へ、この本からあの本へ、あの本からこの人へ。そういう本の縁というのはたしかにあって、おもわぬ出逢いや再発掘につながっていくことが多々ある。例によってそんなつまらないことをあれこれ考えたあと、ドキドキしながら佐藤正午の小説を読みはじめた。


二十代の前半、ちょっとクセのある恋愛小説に凝ったことがあった。恋に恋い焦がれるギリギリの年代ということもあり、そのちょっとのクセを知ることが大人になるということなのだとおもっていた。恋愛というのは、それじたいがドラマチックなのではなく、そこで生じる人間同士のぶっつかり合いが結果的としてドラマチックな恋愛へと発展する。ぶっつかり合いがなければドラマも生まれないのだけれど、人と人とのことだから多くの場合ぶっつかる。だから、おもしろい。そこに金だの暴力だの病気だの秘めた想いだのが加わると、もっともっとぶっつかり合うことになり、どんどん話はおもしろくなる。人間がしっかりと書かれ、そのダメさ具合が露骨に見えれば見えるほどおもしろい。あまったるくもないけれどトロリとやわらかく、ミステリアスだけれど凝りすぎた謎解きのない、水のようにカタチを変える独特な文体の匂い。そんな、ドキドキしながら大人の恋愛を垣間見たような心もちになれる佐藤正午の小説が、当時のぼくには刺激的だった。


どちらかというと佐藤正午の書いたものでは小説よりも随筆のほうが好みなのだけれど、今の心境はとにかく物語の中へのめり込んでいってしまいたかったので、小説ばかりを選んでグイグイ読んだ。いや、グイグイというよりも、宿酔いの朝に飲む水のようにガブガブと貪り読んだ。恋愛モノ、青春モノ、競輪モノ、存在意義モノ、ランダムに選んであれこれ読み返す。あれ?佐藤正午ってこんなにおもしろかったっけ。途中、佐藤正午と同郷の作家である野呂邦暢の随筆や、競輪つながりで能島廉の小説にちょこっとだけ浮気したりもしたのだけれど、ほぼまっしぐらに7冊一気読みした。どれも唸るほどおもしろかった。むかし読んだ本のイメージというのは、ある時点で一回とっぱらっておくべきものなのかもしれない。


佐藤正午の著作、うちには全部で10冊あるのだけれど、調べてみたらまだまだいっぱい出ているようだ。残り3冊を読み終えたら、他の作品もぜったい読みたくなるだろう。訳あって大々的に家と本の整理をし始めたところなのだけれど、これではまた本が増えることになりそうだ。やれやれ、息抜きどころじゃないな。