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ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

死の淵を見た男。

2011年3月11日、東日本を襲った大地震と大津波により、福島第一原発は史上最悪の事故に見舞われた。そんな未曾有の出来事に翻弄されつづける中、使命感と郷土愛に貫かれ、文字通り死を賭して闘う人たちがいた。福島第一原発所長として最前線で指揮を執った吉田昌郎氏と、その部下たち69名である。彼らは家族のために、福島のために、日本のためにと、最後まであきらめることなく現場に残って闘いつづけた。


胸の中で頻りに手を合わせ、絶句し、深く感謝しながら涙を流して本を読む、という経験をはじめてした。と同時に、原発事故のニュースが流れる度、何も知らずただテレビの前で毒づいていただけの自分を恥じた。賛成とか、反対とか、そういった原発の是非論から一切離れ、徹底して「あの巨大地震と大津波の中、現場では何が起き、何を思い、どう闘ったか」という現場の真実だけが描かれた本『死の淵を見た男/吉田昌郎福島第一原発の500日(門田隆将 著)』を読み終えてからずっと、ぼくは祈るような気持ちで「人として」の意味を繰り返し考えつづけている。人間であり、国民であり、県民であり、プロであるということについて。


自分と一緒に死んでくれる人間のことを思い浮かべることなど、一生のうちでそうそうあるものではない。しかし、この本の中にはそういった場面が幾度もでてくる。「決死隊をつくってやっております」「こいつなら一緒に死んでくれる、こいつも死んでくれるだろう」「死なしたらかわいそうだ、だけど、どうしようもねぇよな」吉田氏は、想像を絶するギリギリの状況の中で、自分と一緒に死んでくれる人間のことを次々に思い浮かべては苦悩する。それは人間と人間との強い信頼、使命感、愛情、諦め、覚悟、もっともっと複雑で言葉にできないような入り組んだ感情と関係によって生まれる特殊な思念なのだろう。想像してみることはできる。できるけれど、死の淵、ここに立ったことのある者でなくては、全てが嘘になってしまうのだろうともおもう。しかし、嘘であっても敢えてそこに立つことをイメージすることで、「人として」の意味を考える原点が見えたような気はしている。それは、働き方、付き合い方、育て方、そういった今の自分自身の生き方にもつながっていて、じぶんというものを見つめるための原点でもある。


もう、この本のことで書きたいことは山のようにある。先にも書いたけれど、ページを繰るごとに胸の中で頻りに手を合わせ、絶句し、深く感謝して、紙くずみたいにくしゃくしゃな顔になって涙が流れてしまうくらいなのだから。もっとあれこれ書いて伝えたい。そのすべてを誰かと共有したい。でもそこは、ご一読あれ、ということでやめておこう。内容が内容なだけに、どうしても読み手の先入観や知識によって視点が変わりやすい本なのだけれど、ただ一点、死を賭して闘った現場の男たちの物語としてだけ、一人でも多くのひとに読んでほしいと心からおもう。原発のこと、東電のこと、政府のこと、いろいろ言いたいこともあるとおもうけれど、ただ一点、この本を読むときは、あの時の「現場」にだけ思いを馳せて読んでみてほしい。そして、過酷な状況下で闘った「人として」の意味を考えてみてほしいとおもう。


なんだか少し偉そうな締めくくりになってしまったけれど、とにかくここには希望があるのです。たしかな希望の光が。

死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日

死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日