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ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

なまけ者のペース。

永遠も半ばを過ぎたということで、相も変わらず自分の生き方について日々考えをめぐらせている。これでもけっこう真剣にうんうん唸りながら考えているのだけれど、どんなに忙しかったり、実は足掻いたりしていたとしても、ぼくは自分のペースが崩れることを極端に厭がる性分なので、傍から見るといつも通りのらりくらりしているように映るらしい。まあ、じっさい、そのとおりなのだけれど。


自分のペースをしっかり保っておかないと、なかなか気が入らない。スタートに失敗したり、途中でバテたりもする。うっかりほかのペースにのまれて流されてしまえば、あとでものすごく後悔することになる。結果が出たらそれで終わりになることや、そうではなくともあとからの修正が難しいようなことを考える場合には、ともかく自分のペースを崩さないということが納得への架け橋となる。そう、妥協せずに納得できるかどうか、すべてはそこなのだ。

《なまけ者という意味は自分のペースで動いて、ほかのペースとはあまり妥協しないということなんです。志賀さんなんか、おそらく絶対妥協してないでしょう。それに比べるとぼくは弱いから、多少ともゆすぶられますが、それでも普通の人よりはぐらぐらしてないですよ、公平に見て》(「なまけ者のペース」尾崎一雄×中野孝次/『対談 小説作法』1983年 文藝春秋

むかしから自分のことをなまけ者だとはおもっていたけれど、この対談集を読んだら腑に落ちて、のどに刺さった魚の小骨がとれたときみたいにスッとした。誰かになまけ者といわれたら、たしかにギョッとするだろうけれど、これからはそんなに厭じゃないかも。


なまけ者という生き方がどうなのかということは置いておいて、断念したり譲歩したりすることのできない、他人と比べてぐらぐらしない部分をもっているということは大切なことだとおもう。それは頑固や意固地とも似ているけれど、なまけ者の場合、ただかたくなに態度や考えをあらためず我を通すというのではなく、あくまでほかと妥協することなく自分のペースで動く、ということなのだから、そこは一線を画する。まあ、来た道も行く道も、それが自分にとって納得のいく道であるのかどうかを一番に考える、という点では同じなのかもしれないけれど。頑固で意固地ななまけ者ってのは一寸厭だなあ…


この夏のあいだには、きっと自分なりの答えが見つかるだろう。それはいつだって正しいし、いつだって間違っている。たぶん、そのどちらでもない。納得して受け入れるもの、なのだ。なまけ者のペース、自分のペースで、納得のいく道を選んでいこう。気取らず、背伸びせず、山気を捨て、納得のいくように。


《一切の気取りと、背伸びと、山気を捨て、自分はこれだけの者、という気持ちでやろう。自分は、人に嗤われる前に、自分で嗤ってやる、そういうつもりで……》(尾崎一雄 著『なめくぢ横丁』1950年 中央公論社