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ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

上善は水の如し。

友人たちと呑んでいたら、座右の銘の話になった。思いのほか座右の銘をもっている人というのは多いようで、有名な格言から初めて耳にするような言葉まで、次々とでてくる。普段は本なんて読まないという友人も、けっこう言葉を大切にしながら生きているんじゃないか、とうれしくなった。かくいうぼくも、座右の銘というような言葉をいくつか大事にもっているのだけれど、その一つに、古代中国の哲学者である老子の「上善は水の如し」というのがある。かれこれもう10年以上、ぼくの心の真ん中に、どっかと座って居ついている。

《上善は水の若し。水は善く万物を利して而も争わず、衆人の悪む所に処る。故に道に幾し。居には地が善く、心には淵が善く、与には仁が善く、言には信が善く、正には治が善く、事には能が善く、動には時が善し。それ唯だ争わず、故に尤め無し。(老子 第八章)》

ぼくなりに老子のこの言葉を解釈してみると、『もっともよい善というのは、水のようなものである。水は万物の成長を助け、他と争うということがない。そして、みんなの嫌がるような所にも流れていってそこに留まる。だから、道(真理)に近いのだ。高いところ(地位や名誉)を望まず、深く静かな心を保ち、思いやりを大切にし、嘘偽りのない言葉で話し、一方的な価値観にとらわれないよう治め、事に当たるとき能力を発揮できるよう努め、動きだす時のタイミングを大切にする。それは少しも争わないということであり、つまり過ちもない。』と、だいたいこんな感じになる。


まだ学生のころ、社会福祉の勉強をしていたときに「人というのは水のような存在である。だから、私たちの仕事の有り様が問われる」というような言葉をどこかで聞いた。といっても、だいぶん昔のことなので、今ではすっかりうろ覚え。なんの話をしているときに出てきた言葉なのか、その意味さえもはっきりしない。けれども、水のような存在、という言葉だけはよっぽど心に響いたようで、忘れられない一つの記号となって、その後もずっと心に残りつづけた。残りつづけたその言葉は、それから数年の時を経て「上善は水の如し」へとつながる。言葉を追っているうちに偶然行き当たる、いつものパターンでつながったのだ。あのころに聞いた、ぼくなりの解釈でしか記憶にない「水のような存在」と、老子のいう「水の如し」というのは、言葉の意味そのものは違っている。違っているのだけれど、どこかでちゃんとつながっているとおもう。川が海へとつながっているように。


ぼくの考える「水のような存在」というのは、容れ物としての自分をイメージするということ。つまり、水のような存在というのは、相手のことを水にたとえて自分を見つめるということになる。たとえば福祉従事者(ソフトとハードの両方を含めたトータル)として、自分たちはどのような容れ物となって相手を迎え入れるべきなのか、ぼくらの仕事は容れ物としての有り様をイメージしていくところからはじまる。いや、はじまるべきなのだとおもっている。あたたかみのあるカタチで受け入れれば、水はあたたかみのあるカタチへと姿を変える。逆にぎすぎすしたカタチで受け入れれば、水は抗うこともできずにぎすぎすしたカタチへと姿を変えていく。低いほうへ低いほうへと逆らわず自然に流れていく水というのは、老子がいうところの道(真理)に近いぶんだけ、ある意味に於いての「弱さ」を孕んでいる。それがより純度の高い水であれば尚更だろう。だから、「私たちの仕事の有り様が問われること」になるのだ。もっといえば、この社会全体の有り様が問われているのだともおもう。


もっともよい容れ物であるためには、それ自体が水のようなものでなければならない。ぼく自身はどうだろうか。老子の言葉を時どき思い出しては、そんなふうにおもう。